十年一昔                  「りる」第14号より

                                                  ボリヴィア    Y.H.
                                                             昭和61年度1次隊
                                    
養殖                                                              

 初めてボリヴィアの地を踏んだのは、協力隊員として派遣された、一九八六年九月であった。四千mの高所に空港があり、息苦しさと空気の清涼さを感じたのを覚えている。

 当時私の配属先の水産開発局には、個別派遣専門家二名と先輩協力隊員二名が、主にボリヴィア高地における農漁村へのニジマス養殖技術普及を行っていた。

 私も早速メンバーに加わり、農村への巡回指導に、ボリヴィア人技術者と共に出かけて行った。チチカカ湖畔では網生簀(いけす)養殖、山間部では素堀池養殖あるいは、小湖沼を有する農村では放流事業と三形態での養殖指導であった。

  水産養殖センター全景 チチカカ湖の水面は標高3,810m

首都ラパスを離れると、すぐアルティプラーノ(高くて平らという意味)と呼ばれる四千米の大地が広がり、人家もまばらになる。電気も水道もない農村で彼らの家に泊めてもらった事も何度かあるが、夜の静けさと星の奇麗な事には驚かされたものだ。

  小湖沼で漁獲調査(網を入れているところ)

 そういった普及活動を続ける中、一九八八年一月に、当時の専門家の方々の努力の結晶である、水産養殖センターが、JICAの無償資金協力により、チチカカ湖畔に完成した。私の任期は、同年七月までであったが、センターが軌道に乗るまではと一年の延長を申請した。先ずはセンターでのニジマス生産を軌道に乗せることが、私の任務となった。

 一九八九年五月頃から、無給餌でも生産のあがる小湖沼への放流事業を取り上げ、その基礎的な調査を開始すべく準備を始めた。八月に後任隊員が到着。彼へ業務を引き継ぐべく更に三ヶ月延長し、帰国したのは同年十一月であった。

 専門家として、すぐにボリヴィアに再赴任できる可能性もあった。その話は断わり、地元に残るべく、愛媛県出身の私は、隣県坂出の養殖場に就職を決めた。一九九〇年二月のことであった。毎日、ハマチやタイに餌をやったり、出荷作業をする中、ボリヴィアの事を忘れたことはなかったのだろう。スペイン語も独学で続けていた。

 ボリヴィアでは、一九九一年六月から、センターを拠点にプロジェクト方式技術協力(以下プロ技)が始まっていた。しかし、小湖沼の放流分野での専門家がまだ決まっていなかった。ボリヴィア高地へ長期で赴任できる人材は少ないようである。そこで私に白羽の矢が立った。仕事にも慣れた二年目の夏のことであった。

 坂出の養殖場を退職、再度ボリヴィアに発ったのが、一九九二年二月であった。私は最後の専門家としてチームに合流、日本人四名での五年間のプロ抜は、本格的に稼働したのである。

 今回の業務は、私が隊員当時に始めた小湖沼へのニジマス放流試験であった。ボリヴィア高地にある小湖沼での環境・生物調査、ニジマス稚魚の放流、その後の追跡調査を行い、湖沼でのニジマス生産に関する各種データを分析し、ボリヴィアに合ったニジマス放流技術マニュアルを作成することである。

 今まで灌漑用の貯水池としての利用価値しかなかった湖沼をニジマスを放すことで、現地農民が、動物蛋白供給、副収入の増加の目的で利用できるようにすることが、最終目標であり、そのための指標作りを行っているわけである。調査には、その湖沼を管理する農民の協力が必要である。調査目的を理解してもらい、センターと農民と共同で行う、いわゆる現場参加型の協力を行っている。

  地元農民と調査のひととき 乾燥ジャガイモ(チューニョ)をほおばる(右から二番が筆者)

 調査の終わった一時、カウンターパートが農民達にこう言った。「ボリヴィアは鉱山資源が豊富だけど、金や銀は取っちまうと終わるんだ。でも君達の湖は、鉱山と違ってうまく利用すると、何年もニジマスという金を生産してくれるんだよ。」うまい事を言うもんだと感心した。今一番信頼のおけるカウンターパートである。

 一九九六年六月には、五年間のプロ技協力期間は終了したが、ボリヴィア政府は二年間の協力延長を申請し、それが認められた。日本人チームは二名になり、私は今までの業務に加え、チームリーダー兼任という責任のある立場となった。来年六月、日本の協力終了後、センターが独自で運営され、今まで移転された技術を生かし、地域に貢献できるよう運営全般をも指導している。とは言え、問題は山積みで苦労は多い。

 思えばあっという間の十年であった。この間日本には、二年と少し居ただけで、後はボリヴィアで生活した事になる。

 南米の最貧国と言われるボリヴィアであるが、この十年で物質的な豊かさの変化は目に見える。都市では車は増え、交通渋滞は問題になっている。飲料品はすべてビン詰めだったのが、使い捨て容器が主流になった。買い物に行けば、ナイロン袋に入れてくれる。

金さえ出せば、ほとんどの電化製品は手に入る。しかし農村部での貧困は続いている。相変らず、インカ時代からの農法で、細々とじゃがいも等を栽培している。この物質的な豊かさが、農村部の貧困に拍車をかけているようにも思える。物を買うための金を求めて、若者は郡市に出て行く。

畑を捨て、民族衣装からジーンズに着替え。ボ国政府も貧困対策は重点事項としており、日本の協力も同様で我々のプロジェクトの存在意義もここにある。

 残り一年半を切ったボリヴィアでの任期、過去にこのプロジェクトに関わった多くの人を代表して、納得のいく締めくくりができるよう邁進(まいしん)していくつもりである。

最後に、南米のボリヴィアで八年間、微力ながらも地域住民の生活向上のため、尽力している日本人がいることを、少しでも多くの人に知ってもらえれば幸いである。