”世界の屋根”裏の物語      「りる」第11号より

     ブータン       S.T.

                     昭和57年度4次隊/平成2年1次隊

                     建築

 

 ヒマラヤの山中の王国・ブータンで、三年間の建築隊員としての活動を終えた私は、以前から親交のあった人のつてで、大阪・高槻にある生命誌研究館という博物館で働き始めた。

 一年ほど経った頃、実家の母が「ブータンから手紙が届いた」と言ってきた。転送してもらって差出人を見ると、ブータンのガサ県の知事である。妙に思った。彼とは一面識もない。

 私は、”秘境”ブータンの、更に首都ティンプーからバスで三日かかる、秘境中の秘境に赴任しながら、一部の隊員から『スタンドプレーが過ぎる』と揶揄(やゆ)されつつも、現地の乏しい材料で工夫して模型やパースを作り、レポートを連発して、政府に自分の存在をアピール、首都のお雇い外人のインド人建築家や他の建築隊員を押さえて、西はシッキム国境まで十キロの「ハ」から、東はインドと国境紛争中の「サクテン」まで、ブータン全土で仕事をした。

 しかし、ガサは県庁所在地でありながら車道が通じていず、歩いて三日もかかる辺地であり、仕事をした記憶はない。封を切ってみると、「チョサ・ゾン改修プロジェクトを進めたい。ついては内務大臣が君と打ち合わせをしろというので、来てくれないか」という内容であった。

 

 街から少し登れば氷河地形が広がり花が咲き乱れる。ブータン・ブムタンにて



 『ゾン』とは、ブータン全土に十数ケ所ある、寺と城を兼ねた建物(政教一致のチベット仏教ゆえ)の事である。ほとんどが三百数十年経た、日本なら重文級の代物だが、いまだに県庁として使われている所がすごい。余談だが、笑える事に、行政区画の変更でできた最新のゾンは、私の設計である(ただし税金代わりの労役で建てられる為、十数年がかりである)。

 『チョサ・ゾン』は、ブータン人にも、その存在をほとんど知られていない。ヒマラヤ主稜線まで数キロの氷河の末端、標高四千mの砂浜にそびえる、幻の城である。そこへたどり着く三本のルートは、いずれも車道の終点から十日前後かけて、五千mの峠を幾つも越える難路である。

 

  夏も氷河を戴くヒマラヤ主稜線ブータン・ルナナにて



 その城の噂を聞いて測量に出かけた私も、一度は成功して改修計画書を出したものの、二度目は深雪にはばまれ峠を越せなかった。往復二十三日、現地での測量わずか一日の、とんでもない「出張」である。

 知事からの手紙を見て私は、チョサ・ゾンのあるルナナ地方が、ガサ県に属している事を思い出した。「ルナナ・・・」日本に帰って一年、日々のあわただしさに消耗した私の脳裏に、屏風(びょうぶ)のように迫る標高七千mの白銀のヒマラヤ主稜線を背景にした、チョサ・ゾンの姿が浮かんだ。

 

  チョサ・ゾンのあるルナナヘ向かう道

 


 あの、世界地図で見ると山また山のヒマラヤのど真ん中に人が住んでいる、あまつさえ四階建ての城までそびえている事など、一体誰が想像できよう。まして今や大阪の小さな博物館で、展示の企画や機関誌の編集をチョコマカやっている私が、それを初めて測量し、改修計画書まで作ったとは、自分でも信じ難い。

 元々建築コンサルタントである私の報告書は、単に復旧に留まらず、トレッキングルートの振興とゲストハウスとしての運用により、プロジェクト自身で自活できるように計算されていた事が政府内部で評価され、国王から提出を求められる光栄に浴した。

 多分そのせいだと思われるが、帰国時には国王より仏画や織物、銀製の小箱までいただいた。その「チョサゾン・プロジェクト」が私を呼んでいるのに、行かない訳にはいかなかった。

 ただ、私には気乗りしない理由があった。実は、件(くだん)の報告書の末尾に「帰国後、日本でも資金援助者を探してみます」と、書いてしまったのだ。別にカッコつけるつもりもなかったのだが、当時、私が設計していたのはアジア開発銀行からの借款や、デンマークやクウェート(これは当然、戦争で立ち消えになったが)からの援助によるものであって、何の予算的裏付けもないプロジェクトを(自費とはいえ)立案するのは、かなり不自然な事であったが為の言い訳であった。

 いや、単なる言い訳ではなく、実際、帰国後、”ナントカ財団”や、”ナントカ振興会”などに打診してみたものの、折からのバブル崩壊でいずこも緊縮財政、つれない返事ばかりだったのだ。合わす顔がないとは、この事だ。

 しかし、エンピツと紙だけで、ブータン政府を騒がせた私が、今さら逃げ隠れしては、現在派遣されている隊員にも迷惑がかかる。結局、94年の夏休みは、ブータンで過ごす羽目となった。

 とは言え一週間の休暇では、歩いて三日かかるガサ県庁へ行く事は不可能。おそるおそる、これまであまり縁のなかった内務省(私は公共事業省の役人だった)に出向いたが、幸いかつて各地の仕事で付き合った人が、本庁に戻っていて、事はスムーズに運んだ。

 

ブータンの国技、アーチェリー。但し平地がない為、沢をはさんだ尾根の間で打ちあう。(奥の人だかりからこちらへ打ってくる)中間で踊る娘さん達の頭上を、矢はビュンビュン飛んで行く。


 


 要するに、あの報告書に対して内務省が全面支援(しかし資金的にではなく人的に)する、という決定がトップレベルで為されたので、”遠慮せず”どんどん進めなさい、という事であった。今や何の後ろだてもない一個人に、わざわざ内務大臣まで面会して下さってのお話は有難い事であったが、「このプロジェクトは谷本に任せてある、との国王のお言葉により、他の援助団体には依頼していない」との言には、あわてて「ドンドン依頼して下さい!」と打ち消すのに躍起となった。

 久しぶりに訪れたブータンは、急速に変貌しつつあった。私が赴任した五年前には、まだまだ伝統建築が三分の二以上占めていた首都ティンプーのメインストリートも、完全に比率が逆転していた。ブータンを離れてから訪れたチベットや雲南のように、文化的に死に体の、”見世物”にはなっていないにしても、数百年ヒマラヤ山中に保存されてきた、貴重な人類の財産が、失われようとしている事は確かだ。

 

今や外国人立入禁止になった秘境中の秘境、サクテンには、タコ足状にシッポのついたベレー帽をかぶる、独自の文化を持つ遊牧民が暮す。

 


 動物や景観なら、滅びかけたものには手厚い保護の手が差しのべられるものを、人類の文化の多様性に関しては、、”開発”や、”国際化”の美名のもと、いとも簡単にかき消されていく。大臣との対談の中で出た、こうした話を、かつて夢想した「ヒマラヤ文化センター」とからめて小さなレポートにして帰った。

 

ヒマラヤ主稜線まで10キロの谷間にも、こうした人々の暮らしがあることを、誰が知っているだろうか。



 現在、生命誌研究館で働いているのは、決してその夢から遠ざかるものではないと信じている。

 何だか自慢たらたらの話になったが、それというもの、最近『協力隊といっても大した事してないんでしょ』といった声を耳にする事が相次いだせいだ。我々OB・OGの”教えるより教わった事の方が多かった”といった謙遜が過ぎたのかも知れない。少なくとも日本国内の恵まれた物資、整ったシステムに乗っかって”活躍”している人に『何もしてない』呼ばわりされる筋合いはない。

 現役隊員諸氏には、カッコにこだわらず、自分に与えられた状況の中で、クリエイティブに苦悩して下さい。所詮、日本にいる人に解ろうはずもない、あなた一人の中で、現代社会が持っている”伝統と発展”、”国益と国際化”といった矛盾の糊塗(こと)が、断裂していようと。



ルナナ行きは、途中ほとんどがテント泊まり。 部下の実家の法事に招かれて。正面がS隊員。
(法事に近所の人々やお客を呼ぶ習慣がある)

ルナナからの帰りは、現地の娘さんがポーターをしてくれた。奥に白く横たわるのが、氷河の末端。その手前の白い砂浜との間の扇状地に、小さくチョサ・ゾンが見える。 ここが私の家のあったカンルン、
標高1800m。(谷底まで1000m)毎日標高差600mを、
1時間かけて登った。