諸葛田の香り
(私の三国志)      
「りる」第10号より

     中国           A.S.

                     平成5年2次隊

                     病虫害

 

 任期も残りわずか二ヶ月足らずとなりました。今まで、たまりにたまったデータ・資料の整理やいくつかのレポート作成と、活動締め括(くく)りの作業でなんとなくせわしい日々を送っています。

 さて、この夏、最後の休暇ということもあり、年来の望みであった「三国志」めぐりの旅をしてきました。そこで、今回このお話をしたいと思います。

 ひと言に「三国志」めぐりと言っても、主人公らが活躍した舞台がこの広大な大陸です。それらの足跡をたどるにしても、驚くほど広範な地域にわたっており、とてもひと夏でまわりきれるものではありません。どうしても場所を絞り込まなければなりません。

 私と同世代の「三国志」好きが、普通三国志といえば陳寿の史書「三国志」でなく、吉川英治の「三国志」を指す。史実を冷静にみれば、何と言っても織田信長に似た曹操が一番の英雄と思うのですが、羅貫中の判官びいき的な「三国志演義」と同様、そこはどうしても孔明や玄徳など蜀の人々に引かれてしまうのです。

 中でも心を打つのが、「天下三分の計」という戦略構想が破綻し勝算がないのを承知で孔明が劉禅に「出師の表」(すいしのひょう)を奉り北伐の軍を起こし、ついに五丈原でその生涯を終えるくだりです。今回、その孔明終焉の地・五丈原から兵站基地・漢中、そして「三国志」のメッカ成都と、ちょうど第五次北伐の逆コースで、孔明ゆかりの古跡を尋ねてみました。

 五丈原は現在の陝西省にあります。そこへ行くには、まず、西安に入る必要があります。西安に着くと市内観光も程々にして、目的地の情報収集にあたった。

 さすが観光都市。タクシーの運ちゃんもホテルの服務員もみなたいへん親切である。ところが、五丈原について尋ねても、彼らはそんな辺鄙(へんぴ)なところへ行きたがるのが理解できない様子で、兵馬俑など地の観光スポットばかりすすめるのである。その上、こちらの知りたいことは観光コースから外れているせいか、あまり知らないようであった。

 仕方がないので、地図を頼りに宝鶏行きのバスに乗り、現在の五丈原鎮に向かうことにした。どうにかなるであろう。

 バスは城街を出ると、トウモロコシ畑の中をひたすら西へ走る。たまにリンゴ園やブドウ園が散在する他、どこまでもトウモロコシ畑が続く。きっとこのあと小麦でも植えるのだろうなと思いながら、この平凡な風景を楽しんだ。渭水の南岸を走っているはずだが、ここからは渭水の眺めを見ることができない。

 四時間ほどでやっと手前の眉県まで来た。距離にして120キロ程度なのに、バスがおんぼろで、道も狭く、思いのほか時間を食ってしまった。なにしろこの間、三度もタイヤの空気を入れ直したのだから。

 眉県の街を通り抜け、しばらく走ると、眼前の景色が突然開けた。右手に渭水が流れ、両岸はるか向こうの山々まで望むことができるようになった。このどこかで、かつて魏と蜀の大軍が対峙(たいじ)していたと思うと、何やら急に胸が高鳴ってきた。

 ちょうどその時、車内に田んぼのにおいが流れ込んできた。いつの間にか、道路わきのトウモロコシ畑が水田にかわっているのである。中国の教科書では、渭水の南側に連なる秦嶺山脈が水稲と小麦の栽培の境とされているから不思議である。

 五丈原鎮は500mも走れば、街を通り抜けてしまいそうな小さな町である。街道から南へ入ると、中国の田舎ではどこでもお目にかかれるような市が並んでいた。これも100mも歩けば、向こうへ突き抜けてしまう。その角にある商店で油を売っていた、オート三輸のおっちゃんをつかまえ、「諸葛廟」に連れていってもらうことにした。

 南へ延びる一本道をゆっくり走る。五分足らずで到着した。降りてみてビックリ。100mはあろうかと思われる断崖が目前に聳(そび)え立っているのである。私は「原」と言うからてっきり平坦な地をイメージしていたがさにあらず。甲州武田軍と三河徳川軍が衝突した「三方原」のような台地だったのである。その「原」は秦嶺山脈から渭水に向かって突出した巨大な台地で、なるほど数十万の軍勢が布陣しても不思議でないところであった。

 

  陝西省 五丈原 諸葛廟



 その「原」の先端に諸葛廟が立っている。なかなか広壮な造りである。中国人の参観者もみられたが、境内はひっそりしていた。

 前庭に立つと、遥かに渭水を望むことができる。雄大な眺めである。北岸に布陣し、さらに南岸にも背水の陣を布いた「仲達」指揮の魏軍も眼下に見ることができたであろう。長安そして洛陽にのびる道に鉄壁のように立ちはだかるその陣容を孔明は毎日どんな思いで眺めていたのだろうか。「志」半ばにして逝った孔明の無念を思うと、新たな感動を覚える。

 帰途の車中、車窓の外に広がる水田を眺めながらふと思った。結局勝ったのは孔明だろうか、仲達なのだろうか?

 魏も蜀も滅んですでに久しい。しかし、今なおこの水田は残っている。諸葛廟の展示資料によると、孔明がこの地に駐屯したとき屯田兵をおいたのが、この付近の水稲栽培の始まりと言う。その名も「諸葛田」

 車窓より流れ入るほのかな田の香りを受けながら、蜀びいきの私は思った。やはり孔明の勝ちと。

(◎余談であるが、孔明、玄徳らが「赤壁の戦い」の勝利で初めて手にした土地が、私の任地でもある現在の湖南省あたりだという。二年間活動してきたところが、そんな縁深い土地であったなんて「三国志」好きの私にとってたいへんうれしい発見であった。)