私の南米エクアドル      「りる」第13号より

     エクアドル        H.B.

                     平成6年1次隊

                     理数科教師

 

 帰国後1ヶ月たった今、しかしまだたった1ヶ月にもかかわらず、何だか協力隊に参加したことは遠い昔、いや他人事のように思えたりする。それはやはり、帰国後すぐにこの速いテンポの日本社会に入らざるを得なかったためであろう。それでもやはり、向こうでの生活の癖が残っていて、無意識に変な事をしてしまう。そんな時は『ああ、ここはエクアドルじゃないんだ』と感じる。

 私は日本の職場を休職しての協力隊参加であったので、復職後は職場の人々からエクアドルでの生活についていろいろ質問を受ける。そのたびの自分が向こうで経験したことを話すができるだけわかりやすく話しているつもりでもどうもなかなか十分にには理解してくれない。

もっともエクアドルに行く前の自分を思い出してみると、自分も様々な人からエクアドルについて聞き、想像を膨らませていったがその想像の及ばなかったことがほとんどだった。向こうの人々の考え方、仕事ぶり、生活、・・・大部分が行ってみてやっと分かるものだった。以下に現在の私が真っ先に思い出すようなエクアドルで経験した最も印象に残った出来事について述べていきたいと思う。

  スプーンを電極に用いたラーメン作り−化学クラブの活動風景− B隊員(右端)と学生、左端は同僚の先生


 日本でよく聞くように、行ってみたら仕事がなかったという場合を、私もまた経験した。赴任20日後に所属中学校の学校長が汚職を理由に他の先生からクビにさせられてしまい、学校に居ることができなくなったのである。協力隊事務所との隊員受け入れの合意にサインをしたのは学校長であるから自分は関係ない、と副校長を始め他の先生方も言うのである。それでも、4ヶ月もの間その任地で日本の教科書をスペイン語に翻訳したりしながら何とか自分にできる仕事はないかと探した。しかしながら、見通しもつかなかったため、任地変更の決心をしてキトで職探しを始めたのである。

普通、援助で海外に出かけるからにはあちら側の何らかの要請に応えて行くと思われるであろう。しかし、現実は必ずしもそうではない。私の職種である理数科教師はエクアドル国内では他に要請が挙がっていなかったため、JICAエクアドル事務所に勤めるエクアドル人スタッフの母校を訪問し、自分にできることを訴えて働かせてもらうになった。本当に自分でエクアドルで就職活動しなければならなかったのである。

ボランティアで行っているんだからどこだっていいんじゃないかと思われるかもしれないが、協力隊の決まりの中に配属先は隊員の住居を世話しなければならないことになっている。そのためそう簡単にどこででも働けるとは限らないのである。配属先は隊員のために住居を提供するか、住居費を捻出するかしなければならないため、隊員を抱えるにはそれなりの予算の確保が必要となってくる。

また、日本人を雇うお金があるくらいなら就職難の中、エクアドル人を雇った方がいいし、日本人が来ることによって自分達の職が奪われるのではないかと考えられる。幸いその学校は校長先生が大変理解のある方であったため、私の住居費の手配などは父兄会からの支出ということで解決した。しかし、やはり先生方の中には職を失うのではないかと縣答岬する人たちもいて、私の活動を理解してもらうのは難しかった。

 日本の常識では考えられないようなことは他にもたくさんあった。先生によるストライキも突然行われる。行ってみたら学校が休みだった、なんてことはしょっちゅうだ。どうして事前に告げられないのか!?門の所で私だけでなく生徒も何人かが入れずに集まっていることもある。なんだかんだと理由を付けてパーティにしてしまい、授業も何度も休みになってしまった。ストライキは先生だけではない。

ある日学校に行くと、学校前の道路で生徒が道を塞いでタイヤを燃やしているではないか!これはディーゼル料金が値上がりしたため、自分達の両親が仕事に困るから親に変わってやっているというものであった。

そしてそれより驚いたのは、そこに警察がやって来て、催涙弾を打ったことである。この催涙弾のおかげで辺りの市場の店はすべて閉ざされせっかく行われていた一部の授業も取りやめになってしまった。私は私でたまたま外のトイレに入っている間に催涙ガスが漂ってきて死ぬかと思うくらい苦しい思いをした。高校生の子供達に催涙弾を打つなんて!しかも警察が・・!日本でそんなことが考えられるだろうか!しかしまあ日本でも宗教集団が地下鉄内に無差別に毒ガスを蒔くようなことが起こっているのだから、エクアドル人から見たらその方がよっぽど理解し難い話だろうけど・・・。

 こんなふうに日本ではなかなかないようなことが起こる中で私の支えとなってくれたのはそれでもやはりエクアドル人だった。彼らの寛大な心、考え方には私のように短気な者には頭が下がる。協力隊に参加したくせに私には外国語アレルギーがあった。中学から大学まであれほど英語を勉強したにも関わらず喋ることができない。エクアドルの言葉はスペイン語である。母音が日本語に似ているとあって日本人にも聞き取りやすく、また発音もし易い。おかげでこんな私にも馴染み易かった。

当然肝心な時に言いたいことが言えなかったりして悔しい思いもしたが、言葉の違う国で育った人同士こんなにもコミュニケーションをとれるものなのかと当り前のことかも知れないが感動した。話の弾んだときは振り返ってみても外国語で会話していたことが不思議なくらい心が打ち解けていた気がする。価値観の違い、常識の違いに悩まされはしたが、人間の心は基本的に同じだと感じた。テレビや本でよく体験談で語られていることを自分自身も感じることができた。

 エクアドルでの2年の中で自分の能力のなさも痛切に感じた。また、何の技術も持っていないことを実感した。こんな私を救って働くチャンスを与えてくれたエクアドル人には感謝してもしきれない。言葉も不十分な見も知らずの外国人の授業をよく我慢してくれたと思う。授業の最後に多くの生徒から『いっぱい先生を困らせてしまったけど許してね』と言われたが許して欲しいのは私の方である。

 最後に以前より憧れていた南米で暮らすことができ幸せでした。また、日本で私を支えて下さった方々には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

  現地の子供を抱いたB隊員