ガーナ再訪          「りる」第7号より

     ガーナ         J.M.

                     平成元年年2次隊

                     秘書

 

 「三十年たって、もう一度ガーナに来てみたいね。」「日本みたいになってるのかな。」と帰国間際に同期隊員と言ってたのを思い出した。帰国して三年近くたった今年の夏、ラッキーにもわずか一週間ではあるが、ガーナに里帰りしてきた。もちろん物価が上がったのと道路の穴がふえたこと以外何も変わってなかった。ガーナで二年間暮らした自分としては嬉しくもあり、悲しくもある現実だ。

 とは言え、今やガーナはJ・J・ローリングスを大統領とする立派な民主国家であるし、まがりなりにも首都アクラには三つ星のリゾートホテルも建っている。また、世界銀行に遅延なく借金を返済しているアフリカの優等生である。『ロッテ・ガーナチョコレート』としてのイメージしかなかった西アフリカのガーナと私を結びつけたのは、もちろん青年海外協力隊である。

私は「秘書」という珍しい職種でガーナで二年間活動してきた。当初の任務はユニセフのロジスティクス(物流)部門の日本人チームの調整員であったのだが、このプロジェクトはユニセフのオフィサーとの意見相違により破局を迎えており、派遣された私には新たなる職探しという任務が待ち構えていた。(こういったことは珍しいケースではない)

 現職参加だった私には、のんびりしている暇もなく、当時のJOCV(青年海外協力隊)の方針で後任を取れないこともわかっていたので、同期の自動車整備隊員と共に保健省のプロジェクトに協力することにした。任地はアクラの西一五〇キロのかっての黄金海岸国の首都ケープコーストのアンカフル精神病院。ガーナの省庁はそれぞれの役所が、自動車整備工場からはじまって木工製作所、水道屋にいたるまで職人をもっていて、すべての修理作業を自分の役所内でまかなえるようになっている。

「車」のことであるが日本でも病院にとって救急医療用等に車輌は重要であるが、ガーナにおいては様々なプロジェクトで、ジャングルやサバンナに点在するクリニックを巡回する車輌はなくてはならないものである。しかし、劣悪な道路事情により車は日本の一〇倍の速度でこわれ、その上部品が入手困難なことより工場内には常に部品を求めるプロジェクト車輌が数台整備待ちの状況であった。

 アンカフル病院自動車整備工場のスタッフ(G隊員と一緒に)


 自動車整備に関して、素人の私のできる仕事はとにかくガーナ人運転手に定期点検を習慣づけさせることである。修理することに関しては彼らはプロである。しかし予防することは全くの素人であった。パンクをすればタイヤをころがして数キロの道を往復するのもいとわない人達なのだ。

 当初、私たちがアンカフルに行った時は工場は開店休業状態であった。しかし私たち日本人二人が来たということでスタッフも集まり、まがりなりにも整備工場の「体」(てい)をなしてきた。私の場合は、後任を取れなかったものの、同期の自動車整備隊員には後任が来た。さらにうれしいことに、彼のカウンターパートが二人、香川県と石川県でそれぞれ研修中なのである。

 私の送別会の日は朝から工場を閉めてフーフー作りだった。フーフーとはキャッサバイモや食用バナナを蒸して、「きね」でついた「もち」のようなものをスープといっしょに食べるガーナの代表的な料理である。この夏、ガーナに戻った時も工場のみんなは例のごとく仕事をやめてフーフーを作り私の歓迎会を開いてくれた。それにしても男連中がキャッサバの皮をむいて、フーフーをつきスープを作る。そして片付けも男たち。楽しく料理を作って楽しく食べている彼らを見て、決して彼らの住んでいる国を途上国とは呼べないなど思った。

  歓送別会でフーフーを食べるワーカーたち(G隊員と一緒に)


 三〇年後も決して日本のような国にならず素朴なままのガーナでいてほしいと願うのは私のエゴでしょうか。それにしてもケープコーストの宿舎で親しくしていたおばちゃん二人が、フーフーをついてくれていたのにバスの都合で、食べずにケープコーストをあとにしなければならなかったことだけが悔やまれます。