インド紹介&青年海外協力隊体験談             「りる」第81号より 

                                                    インド     上原 由雅
                                                             平成30年度3次隊
                                         日本語教育
   

 令和2年10月11日、「かがわ国際フェスタ月間」でのイベントの一環として、アイパル香川でインド映画「聖者たちの食卓」の上映が行われ、これに先立ち「インド紹介&青年海外協力隊体験談」と題し、インドから一時帰国中の上原由雅隊員(2018年度3次隊)の講演が行われました。

現地での隊員活動や生活がよくわかる講演でしたので、ご了解を得てここにご紹介します。

 ナマステ。2018年度3次隊・日本語教育の上原由雅です。私はインドに派遣されておりました。インドという国を知らない人はいないでしょうし、思い浮かべることがいっぱいあるでしょう。毎日カレーを食べるの?牛が歩いているの?みんな掛け算が得意なの?など、私もよく聞かれます。

本日は私の活動内容とともに、インドをよりもつと知っていただけるような紹介をしたいと思います。

 まず地理情報です。インドの北部にニューデリーがあり、私はここに住んでいました。よくオールドデリーと何が違うのと聞かれますが、デリー準州の下町区域をオールドデリーと呼んでいるので、実は重なる地域なのです。

さて、インドの形に少し親近感を覚えませんか?北海道をひっくり返した形に似ているとインド人の学生から言われ、確かにそうだと思いました。面積は日本の9倍、人口は10倍くらいで世界第二位です。

出生率が日本の25倍だそうで、平均年齢は27歳と若く(日本は47歳)、2025年には人口が中国を抜いて世界第一位になると言われています。人口密度は日本の1.3倍ですが、香川と比べると20倍くらいあるように思います。

 活動内容を説明しますと、私は首都デリーにあるジャワハルラール・ネルー大学という国立大学の日本語学科で日本語を教えていました。

キャンパスの広さは4キロ四方ほどあり、高松でいうと高松駅から栗林公園くらいまでがすっぽり収まるくらい広い森のようなキャンパスの中に、校舎のほか学生や先生の寮や宿舎があります。

学生数は約8,400人、そのうち日本語学科や日本語の大学院の学生は200人くらいです。

大学の名はインドの初代首相の名に因んだもので、インドの大学のトップ3に入るほど優秀な大学です。学費や学生寮の費用がとても安く、田舎や村出身であまり裕福ではなくても勉強さえできれば学べるということで人気のある大学です。

 一緒に働いていた同僚の先生は、40歳台から60歳台までの方が多く、教授歴30年以上の方もいて、私より日本語を使っている期間が長い方もいました。温かくサポートをしていただきましたが、それ故にちょっと意見を言いたくても指摘するのがためらわれ、代わりにさりげなく学生に「遅れないようにね」などと、先生方にも聞こえるように注意したりしていました。

日本語学科の学士過程1年(大学1年生)のクラスは総勢50人とアニメやマンガの影響から学習者が増えており、一つの教室で教えるのは少し大変でした。後輩隊員が見学に来た際には、1年生はまだひらがな・カタカナを習ったばかり、自己紹介ができるといったレベルだったので、グループに分かれて英語も交えながら雑談し、その後に他己紹介をするという授業を行いました。

また、月に1回定期テストがありましたが、みんな真面目に取り組んでおり、カンニングするような学生はいないので試験監督は楽でした。先生たちは優秀で授業も回せているなと思ったので、私は現地教師の手が回っていない分野である日本文化の紹介に力を入れました。

週1回放課後の時間に教室を借り、お箸の使い方の練習、盆踊り、七夕の短冊作り、子どもの日の兜作りといった季節感を重視した活動を行っていました。他にも日本のハンコ文化に絡めて消しゴムはんこ作りをしたり、かるた、折紙でのハロウィン飾り作りなども行いました。大学には日本人の留学生もいたのでよく手伝ってもらっていました。

 大学では困りごとやトラブルといったことはあまりなかったのですが、学生ストライキにより活動が止まってしまったことがありました。さきほど学費や寮費が安いという話をしましたが、学費は年間で数百円、寮費も月数十円といったレベルだったものが、一気に300倍の6千円や7千円に値上げするという話が出て、それだと学業が続けられない、なんとかもう少し安くしてくれないかという学生がストライキを始めました。

最初は学内でパレードを行う程度だったのが、学外の高等裁判所まで行こうとしたことで、警察が出動し学校が包囲される事態となり、在インド日本国大使館からは学校に近づかないようにと注意を受けましたが、私は大学が職場なので複雑な気持ちでした。ただ、キャンパスの中はとても平和で、門から2キロくらい離れていると全く警察の姿も見えませんでした。

教室が使えない場合には青空教室を開いたりして、やる気さえあればどこでも勉強できるんだなと思った出来事でもありましたが、今思えばこの間にオンライン授業の練習をしておけばよかったなと思います。結局ストライキで3カ月授業ができず、再開したと思ったら今度はコロナウイルスで休校となり、私たちJICAボランティアも日本に帰ってくることになりました。

 帰国時は正直心身ともに疲弊しました。他の国の隊員の帰国が相次ぐ中、インド隊員も帰らなければならないのかわからずモヤモヤし、出発日が1週間後に決まった矢先に空港封鎖のニュースが流れ、急遽明後日の便に変更するなど、大慌てで荷物整理をしました。国境封鎖など何の気なしに見ているニュースで振り回される人がいることに初めて気がつきました。

 帰国後半年以上が経過し、現在は配属先のオンライン授業を続けている他、県内の技能実習生や外国人児童の日本語指導を行っています。私の任期は1月までですが、その後も香川県の日本語教師の需要に応えられるようなシステムや仕組みを作りたいと思っています。

 ここからは、インドのあれこれについて紹介します。インドでは皆さんのイメージ通り、牛が道を歩いています。ヒンドゥー教の神様の一人が牛に乗っているので、牛も神様同様大切に扱われています。道を歩いているのは野良牛かと思っていたのですが、実はどこかで飼われている牛で、夜はちゃんと自分の家に帰るそうです。

サルの神様もいて、サルや牛にご飯をあげる人が多かったです。細い路地を歩くときは防犯の面から前後左右に気をつけるのはもちろんのことですが、足元は牛の糞、頭上はエアコンの水やいろんなものが降ってくるので、周囲に気を配りながら歩かなければなりませんでした。

 言語ではインド語というのはなく、インドには800を超えるたくさんの言葉があります。文字も違います。私が勉強したのは英語とヒンディー語だけで、他の言語は全然わかりません。インドの人は自分の州の公用語に加え、隣の州の公用語、ヒンディー語、英語といくつもの言語がわかる人が多いです。

 食事は、菜食主義者が多いことから、食品にはベジマークという印がつけられており、肉を使っていないものは緑、肉を使っているものは赤の表示があります。食事のメニューはご想像通り毎日カレーですが、材料によりスパイスの調合や水分量を変えた「カレー味の何か」が、副菜として付いているイメージです。

よく日本のインド料理店で出てくるチーズナンなどはありません。もっと薄っぺらなチャパティというものがよく食べられています。また、やたらとティータイムがあります。学会やイベントがあると休み時間に廊下で給仕され、チャイを飲んだり軽食を食べることが多いです。カレーが辛いのと反対でこちらはめちゃくちゃ甘いものが多いです。

 インドは年中暑いのかと思っていたら意外と冬は寒いので、春が来たことをお祝いするホーリーという祭りがあります。元々は悪さを追い払うための色粉を無礼講で掛け合って祝う祭りです。道を歩いていたら上から水風船が降ってきたり、水鉄砲の水をかけられたり、知らない人に色粉をべちゃっと付けられたりするのですが、結構楽しかったです。

また、秋にはディワリという大みそかのようなお祭りがあります。買物をすると縁起が良いそうでデパートなどは歳末バーゲンセールみたいになっていました。

 インドについてよく心配されることの一つに大気汚染の酷さがあります。毎日大気汚染指数を見るアプリで高松の数値と見比べていましたが、健康に良くないとされるレベル150を超えた200や500といった環境にもだんだん慣れていきました。

しかしながら、数値が1,000を超えて測定範囲外となった一番酷い日は、空が霞んで何も見えず目がショボショボしました。それでもマスクを付けないインド人が多くて大丈夫かなと思っていましたが、さすがに今の新型コロナの状況下ではマスクを付ける文化が広がっているそうです。

この大気汚染の原因は、10月位になると季節風が止むことと、近くの村で焼き畑が行われること、祭りで沢山の爆竹を鳴らすこと等が原因といわれています。

 生活はし易いかというとまあまあし易いと思います。ここは東京か大阪かと思うような高層ビルやショッピングモールが並ぶ街がありますし、日本も整備に協力している地下鉄(メトロ)も充実していて、少なくともデリーは生活しやすかったです。

日本企業の進出も相次いでいて、去年はユニクロがオープンし、今年はすき家、カレーのCoCo壱番屋も出店しています。日本料理店やうどん屋もあり、現地の物価からすると高いですが、日本の味が楽しめるのはストレス解消にもなります。

 移動手段も慣れれば大丈夫で、庶民の足であるオートリキシャと呼ばれる三輪車によく乗っていました。リキシャは電動のもの、自転車型、乗り合いのものなどがあります。文字通り人力のものは今やコルカタにのみ残っています。旅行の際はぜひ乗ってみてください。

 私はショッピングモールで買い物するよりも、道で野菜やアイスを買ったり、おじちゃんおばちゃんとお話ししながら買い物をするのが好きでした。年配の方などは英語が通じずヒンディー語がメインになります。


私がしゃべれるのは数字と野菜の名前、これおいしいの?ちょっとまけて、といった程度だったのですが、それでもとても喜んでくれてうれしかったことを憶えています。写真右下は食べ物ではなくてクルミの木の皮で、歯をごしごしこすって歯ブラシの代わりにするものだそうです。

 日常は一人暮らしをしていて、あまりインドらしい生活をしていなかったので、夏休みに学生の実家に泊まらせてもらいました。この家族は床に座って食事をする文化だそうです。キッチンにスパイスや穀物をボトルに入れて置いているのが印象的でした。

ジャガイモを包丁ではない弓状になったナイフのようなものに押し当てながら切っていました。私もやってみましたが難しかったです。

 今日の映画の舞台にもなっている黄金寺院があるアムリトサルにも旅行に行きました。結果としてこれが帰国する直前の旅行になりましたが行けてよかったです。ここは私たちがインド人と聞いてイメージするターバンを巻いているシク教の人たちの寺院です。

シク教はヒンドゥー教とイスラム教のいいとこ取りをしたような宗教で、髪に刃物を当てないので女性の髪は膝くらいまで長かったり、男性は髪を纏めてその上にターバンを巻き髭も剃らず伸び放題という人が多いです。

これらシク教の人たちはインドの人口の僅か2%しかいないのですが、その6割がアムリトサルのあるパンジャブ州に住んでいると言われています。私たちの「インド人=ターバンを巻いている」というイメージは、世界で活躍しているシク教の方が多いことから来ているようです。

写真の右側は寺院の無料の水飲み場でお皿を洗っている(砂で水気を取っている)ボランティアで、私も時間があったので少し手伝わせてもらいました。映画の中にもあると思いますが、ここは全てをボランティアでやっている寺院です。

 インドってどんなところ?との問いに対する結論として、あくまで私の意見ですが、やはりカオス。広い。いろんな人がいる。

「2桁の掛け算できるの?」と聞いても「できない」という人もたくさんいましたし、「私は数学嫌いだから。得意じゃないから。だって13億人もいる中にそんな人がいてもいいでしょ」と言われ、「確かに」と思いました。

こまかいことを気にしない。寛容に受け入れることも学びました。私の英語やヒンディー語が下手でもやさしく聞いて受け入れてくださった人が多かったです。私も日本語や外国語があまり上手じゃない人にも寛容に、間違えてもいいよという雰囲気をしっかり出していきたいなと思います。

 今更ですが、私はインドが第1希望の派遣国ではありませんでした。日本語教師をしていた台湾は自分で決めて行った国なので、次はご縁があればどこでもいいという気持ちが強くて、JICAの判断にお任せしたようなところがあります。

インドは好き嫌いが分かれると聞いていたので大丈夫かなと思っていましたが、私は結構楽しめた方だと思います。

自分からは選ばなかったかもしれないけれど、インドに呼ばれて行って、今は逆に日本に送り返されたのだと思うようになりました。次にインドに呼ばれる時が来るまで、しばらくは日本でできることをやる。流れに身を任せることもインドで学んだことのように思います。