隣の人              「りる」第11号より

     インドネシア        Y.F.

                     昭和63年3次隊

                     日本語教師

 

 インドネシアから帰国して、はや三年になります。何だか随分と昔のことのように思えますが、それでもちょっと振り返っただけで実に様々なシーンが次々に浮かび上がってきます。

 私は二年の任期を一年延長しました。三年いると言葉では説明できないものも伝わってくるようです。例えばイスラム教徒の多い土地では西暦とは違った時期にお正月がやってくるのですが、最初の年には目新しい行事を楽しむ程度でしたが、三年目にはお正月が近づくにつれて人々と同じように何となく心浮き立たせたりしたものでした。

 イスラム教といえば、日本では大勢のイスラム教徒が白く長い服を着てモスクで一斉に祈る様子をテレビ等で見ることがあります。集団での宗教儀式は一種異様な光景にも思えていたのですが、実際その場に行くと清々しい神聖さや、時には運動会の父兄席のような和やかさを感じました。

 日本では宗教的なものがどんどん薄れつつありますが、その善し悪しはさておき、インドネシアの人たちのように心落ち着かせる時間があることは幸せなことかも知れません。

  伝統芸術のバティックに挑戦

 


私はアジア・アフリカ会議で有名なバンドンに派遣されました。標高700メートルの高地にあるため他の地域より幾分涼しく過ごせます。私はパジャジャラン大学で日本語を教えていました。この大学の日本語教育はインドネシアでは歴史があり、JICAや国際交流基金の援助もあって施設も教材も教師陣も比較的充実していました。四年制と三年制のコースがありましたが、私は大学内の日本語研究センターの所属だったので日本語科の学生だけでなく来日予定の会社員、研究職員、専門学校生、一般社会人その他様々な学習者を担当しました。日本語教師としてまだまだ駆け出しだった私にとっては一クラス一クラスがたいへん勉強になりました。

 

  私の学生たち



 大学生たちが日本人と同じような生活をしている反面、町にも村にも物乞いや失業者が溢れていました。日本語を指導することはその貧富の差を広げるだけなのではと思ったこともありますが、経済的な側面だけではなく精神的な面で私たちのつながりを深めていく人づくりも大切だと思い直しました。

  弁論大会で順番待ちをする学生



 学生たちの日本語学習熱は、日本はアジアの経済大国だというイメージに支えられているようでしたが、熱心な学生は日本文化や日本人の心に興味を示していました。多くの民族が同居するインドネシアですから、異文化に対して日本人とはまた違った自然な解釈をしているように感じられました。日本への憧れの気持ちがあるにしても彼らは日本を追ってはいないようです。彼らは日本の若者が日本を愛するよりも深くインドネシアの若者としてインドネシアを愛していて、自国の数々の欠点をも大らかな心で見守っていました。

 青年海外協力隊に参加していい経験をしたね、とよく言われます。確かにその通りですが、それでも一時期の経験として簡単に括孤(かっこ)に括(くく)れない、過去に向けて未来に向けてずっとつながった何かを私自身感じています。

 

  結婚式の前のおどり



 日本はインドネシアを三年半の間統治していました。侵略と言った方がいいでしょう。オランダからの独立を助けたのだという意見もありますが、そう思って誠実に活動していた人やそれを歓迎した人がいたにしてもそれは通りません。悲しい思いをした人たちは今も安らぎを得ていないからです。

 つい最近インドネシアの大衆向けのある雑誌に、オーストラリアで出版された本のことが書かれていました。あるオランダ人女性がインドネシアにいたときに従軍慰安婦として働かされた時の告白書で、戦後五十年たった今、日本を許すことが出来てもあの忌まわしい過去は一生忘れ去ることは出来ないと綴られていました。沖縄で米兵の起こした問題とは状況が異なるにせよ被害者の心は同じであるように思えます。

 私が三年の間に会った人たちの中に強い反日感情を示す人はいませんでした。日本語が少し出来るよと言って「気をつけ、敬礼!」などと楽しそうに当時の様子を話してくれたりする人ばかりでしたし、私がどこへ行っても「おしん!おしん!」と笑顔で迎えてくれました。しかし、それは日本を拒む人がいない証拠にはなりません。日本が本当に嫌いな人が日本人である私に近付いてくるはずがないからです。日本語学科の若手の先生がコピー店に日本語の辞書を持って行ったとたん、店のおじさんはその辞書を床に叩きつけたそうです。学生を中心とした過激な反日運動がおさまった今でも、ぶつけ様のない悲しみや怒りが今なお東南アジアに残っているのです。

 私たちはどうすれば心から理解し合えるのでしょう。異文化理解とはそもそも何なのでしょう。相手のことを「知る」ことで乗り越えられるものなのでしょうか。あるいは人としての優しい「情」、違うことは仕方がないとする「諦め」、共に生きるものとしての「共同意識」、それとも別の何かなのでしょうか。

 日本語教師という職業柄、私はいろいろな国の人に会います。その分、異文化間の気になる出来事にもよく出会います。(もちろん異文化というのは異なる人種間にだけあるものではなく、私個人としては外国よりも国内での不条理の方がよほど異文化に思えます。)文化の違いからくる発想や習慣の違いは楽しい話題になりますが、片方の規範からはみ出してしまう場合もあります。それを相手の「間違い」とせず、自分自身の感性をまず見直さなければならないのでしょう。

 今日では数時間で海の向こうの国へ移動でき、政治的にも経済構造の面でも世界各国が密接なつながりをもっています。しかもその構造的な力関係が文化面にまで影響を及ぼし合う中、私たちはお互いに何を伝え合うべきかを真剣に考えなければならない段階にきているように思います。単に異文化を刺激として楽しむ以上の交流、イベント的な国際交流ではない活動、善意の捌(は)け口ではない協力、それが私たちの毎日の暮らしに程よく溶け込んでいる、そんな生活が求められています。

 人は人です。ドコドコ国の人としてみるのではなく、隣の人として接していきたいと私は思っています。ちょうど、おむすびを腰に讃岐の国境の峠を歩いて越えていた時代が過ぎ去ってしまったように。