帰国報告                     「りる」第35号より 

                                                    インドネシア  M.H.
                                                             平成13年度2次隊
                                         木工
    

 
 私は平成13年12月から平成15年12月までの2年間インドネシア共和国に赴任していました。今でちょうど、帰国して7ケ月目になります。最近では、インドネシア語で夢を見ることもなくなりました。精神的にも、肉体的にも日本社会に復帰しつつあるのだと感じる今、インドネシアでの出来事があまりにも今の現実と離れすぎていて、夢のように感じることもあります。

 今日はそんな夢のようなインドネシアの現実と私の協力隊活動・生活を紹介したいと思います。

 インドネシア共和国は、日本の南西にある島国です。面積は、日本の約5倍。とても広い国ですから、私の住んでいた町(パル)から首都までの国内移動に飛行機を2回乗り換えなくてはなりませんでした。

 その町(パル)はスラウェシ島の中部、ちょうど赤道直下にあります。見渡す限りの椰子の木。牛やヤギが堂々と道を歩き、昼間はほとんど停電、夜も3日に1回は停電。気候は雨期・乾期とはっきり分かれてなく、現地の住民はいつでも雨が降れば、”雨期だ”と言っていました。

 私はこの町の知的障害者施設で木工を教えるために派遣さねました。

 インドネシアでは国営の知的障害者施設は5つしかなく、その中の一つ、東インドネシア一帯を管轄している施設が私の配属先でした。施設は設立して10年経っていたのですが、運営自体まだまだ試験的な段階でした。

 私の活動は、生徒の職業訓練(リハビリ)のために、木工作品を作っていく予定だったのですが、とにかく資金がなく、木材がない・道具がない状況でした。そのため、もう使わなくなった棚を壊して釘を集め、木材を確保したり、金槌の代わりに石を使ったりもしました。

 また資金不足の問題は木工科に限ったことではなく、施設全体でも問題になっており、生徒たちの日用品(歯磨き粉・石けん・シャンプー)が足りなくなることもよくありました。

 私は2年間施設の中に住んでいたのですが、言葉も分かり生徒や職員と打ち解けるほど、(日本人である)自分だけシャンプーや石けんに苦労することもない生活をしていることに後ろめたさを感じたり、落ち込んだりもしました。

 しかし、インドネシアには相互扶助の精神があり、富のある人がない人を支援することが自然に行われていたのです。インドネシアほど経済格差の激しくない日本人の私にとってこの文化は驚きと感動でした。それからの私の活動は、”日本人だから出来ること”をテーマとしてきました。

 とにかく、”施設の活性化”をしようと、手工芸のクラスに顔を出し生徒が出来る作品を職員と一緒に考えたり、展示即売店を開いて生徒の作品を売りクラスの資金にしたり、体育の授業を開いたり、耳の聞こえない生徒、字の読めない生徒のために絵本の木工テキストをつくったり日本人から古着を募り施設で使ったりしてきました。

 そんな活動のなかで一番の驚きであったのが、施設利用者の約半数が健常者であったことです。彼らの家庭は経済的に困難で、そのため学校に通うことが出来ず、また生活もままならないので、施設で生活し勉強をしていたのです。日本では考えられない状況ではあったのですが、相互扶助の精神のあるインドネシア国民らしい面であったと思います。

 インドネシアでの最後にお別れ会を開いたのですが、そのとき牛1頭を買い料理しました。こんな若輩者である私が、施設の子供たち、職員、友人など地域の人達に満足行くほど料理を振舞えたのです。これはほんの一例なのですが、このように日本では出来ない経験や機会を得ることが出来ました。

 今振り返ってみても、決して木工隊員といえる活動ではありませんでした。しかし、外国人である私を受け入れてくれ、施設の運営に関することまで話し合い・協力をしてくれた現地スタッフに感謝しています。

 日本に帰国した今でも、インドネシアは私に沢山のことを与えてくれた故郷です。JICAではサーモンキャンペーンを行っているのでぜひ私も参加したいと思っています。

 最後になりましたが活動期間中、育てる会や県の国際交流課をはじめ様々な方のご協力・ご理解本当にありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。