2年の活動を終え帰国して   「りる」第17号より

     マレイシア         K.M.

                     平成7年2次隊

                     養殖

帰国最初の印象  −寒さと食料の多さ

 このたび私は、マレイシアにおける2年間の活動を終え、12月14日に帰国し、12月20日香川県に帰郷いたしました。帰国して、まず感じたのが、寒すぎる、の一言です。マレイシアを出国した時の気温は35℃、飛行機の機内放送で「間もなく成田に到着します。成田のただいまの気温は、2度です・・・」と言われた時には、ひきつってしまいました。

どの隊員も2年振りに日本へ帰り、日本の空気を吸った時、自分は何を感じるであろうか、と飛行機の中で少しは考えるのではないでしょうか。私もその中の一人でした。私は、深夜に、成田に着いたものですから、楽しみにしていた日本食もその夜は、ラーメンに終わり、落ち着かないまま眠ってしまいました。

次の日は、帰国後研修を受けるために電車に乗って広尾の協力隊事務局へ向かいました。その途中、恵比寿駅の駅ビルを通り抜ける時、私は初めて日本に帰ったんだという実感と喜びに浸りました。その駅ビルを通り抜ける時、私の五感に感じたものは、パン屋さんから出る菓子パンを焼くこうばしいにおい、立ち食いそば屋さんから出るおだしのにおい、それから、ガラスケースにきれいに陳列されたおにぎりやお惣菜、これらを目にして感じた時、何ともいえない安堵(あんど)感と感動が湧いてきました。

この感動はひとしずくの涙にもなりました。これを私がただの食いしん坊と言えばそれでおわりでしょう。しかし、それだけではない理由に、任地で生きて活動するということが、食べるということに直結していたからです。2年の任期の間のほとんどの日々を3食自炊しなければならなかった生活は、食事を楽しむ余裕はありませんでした。

その食生活というものは、「食べなければ体が弱る。また、なにか食べてさえいれば生きていける。」という感覚でした。それゆえに、目の前にある食料の多さに安堵し、便利さに感動したのだと自分では思っております。

任地での苦労  −水のありがたさ

 さて、私の帰国最初の印象はこれぐらいにしておいて、活動の一部をお話ししたいと思います。昔から日照りで悩み、最近も断水に悩ませられる香川県の皆様ですので、すでに水の大切さは、ご承知かと思いますが、私の経験の中でも水の有難さが身に染みてわかるものとなりました。水は、生活するにおいて、先にもありました食べるということに並んで重要なものです。

私の任地には、赴任してから6ヵ月は全く水道水のない生活をおくりました。水のほとんどが、雨水に頼るもので、家の雨樋の排水口を1トンほど入る水槽に入れ、雨水を溜(た)めて使っていました。スコールの強い時は、その水槽が一晩でいっぱいになりますが、乾期に入ると2週間近く雨が全く降らないこともあります。

いっぱいに溜まった水も私の経験では、3週間で使いきり、3週間以上雨が降らないと完全に干上がってしまいます。だんだん水が減っていき、しかも雨が降る様子のないときは、水がなくなることが恐怖に感じることもあります。もちろんこの水槽の水を一度沸騰させて飲み水としても利用していました。話が少しずれますが、私が住んでいる地域は放牧された牛が家のすぐ近くまで毎日のように来ていました。腹立たしいことに、この牛達が私の大切な水をズーズーと音をたてて飲むのです。この牛達には閉口しました。

水が干上がってしまうことが数回ありましたが、そのときは地下水をくみ上げて使っていましたが、家がすぐ海の近くであることから、塩分を含み、水の色も茶色く濁っておりましたから、決して気持ちのいいものではありません。

任地での楽しみ  −漁や宴会

 しかし、任地での活動はつらいことばかりではありません。海がすぐ近くにあることから、よく魚を獲りにスタッフと行きました。釣りは、竿を使わず、餌はイカや小魚を使うもので、時には30センチを超えるスズキ類の魚が釣れることもありました。夜は、朝方になるまで、イカ釣りをしたこともあります。エビのルアーでの釣りですが、釣った時はイカの吐くスミでそこらじゅう真っ黒になりながら釣り上げます。また、私の一番好きだったのが投網(とあみ)です。

投網の季節は、魚が卵を産みに海岸に十尾ほどの群れで来ます。これを、岸から見つけて網を投げるのです。多い時は、バケツいっぱいも捕れることがあります。私もスタッフに付き添って魚の群れを探しに行ったり、投網を習ったりしました。そして、楽しいのが、その後です。イカや魚は、スープやフライにし、これを、つまみにお酒の宴が始まるのです。お酒は、ビールや日本でいう、どぶろく、焼酎、そしてバハールと呼ばれるやしの新芽から出る蜜で作る酒です。ビールは物価からいうと高価なので、それ以外のお酒をよく飲みました。中でも私は、マラリア再発の予防になると、とても苦いこのお酒をよく飲まされました。

皆が酔ってくるとギター演奏でのカラオケが始まり、さらに盛り上がるとスマザオと呼ばれる鳥をモチーフにしたダンスを踊ります。ボルネオの人は、飲む時は全ての酒がなくなるまで飲むので、私も2度ほど二日酔いで仕事にならないことがありました。

任地の人との交流の仕方  −多民族国家の複雑さ

 ところで、お酒を飲むお話しをいたしましたが、実はマレイシアの国としてはお酒を飲むことを、国民に奨(すす)めていません。それは、国がイスラム教を奨励しているからです。もともとイスラム教は飲酒を禁じています。マレイシアには、マレー半島の原住民族でイスラム教であるマレー系、華僑である中国系、そして植民地時代にイギリス人に連れて来られたインド系、それから私の任地ボルネオ島には、数えきれないほどの少数民族が在住しています。

これらの人達は、イスラム教を中心に仏教、キリスト教、ヒンズー教、など、民族によって熱心な信仰をもっています。したがって、これらの人達と接するにはその民族の習慣、そして、宗教に応じた接し方をしなければなりません。

例えば、ご存じのように、イスラム教は、飲酒は禁止で、豚を不浄の動物とし、いっさい口にすることはありません。また、話題にすることさえ、非常に嫌われます。また、一夫多妻制であるように男尊女卑の考え方があり、日本人にはなかなか理解しにくい部分があります。極端な例ですが、日本軍が上陸したことで有名なコタバルでは男女区別の意識が高く、スーパーマーケットにも男性専用、女性専用のレジがあり、結婚前の男女交際を禁止しています。

女性は髪を含む、肌を露出してはいけないということは一般的に知られてますが、それ以外に外でソフトクリームを食べてはならない、口紅をつけてはならないなどとあり、この規則を守らなかった人には宗教警察に取り締まられるといった、厳しい規則があります。

このように、友好関係を持ちたくても、特にモスリムの未婚の女性との関係は、男性の場合は親密な関係にならない方が無難ということもあります。

 対してイスラム教徒以外の民族、中国系、そしてボルネオ島の先住民族と言えば、豚も中華料理でも分かるように好んで食べるし、お酒もよく飲むといったような日本人によく似た、食文化を持っています。また、男女交際に関しても規則はありませんので、どちらかと言えば、日本人の感覚に近いと言えるでしょう。

 ところで、マレイシアではイスラム教徒以外の民族、特に中国系、インド系の人には不利な政策、言い替えれば、イスラム教徒であるマレー系民族に非常に有利なブミプトラ政策と呼ばれる優遇政策をとっています。

その政策の例を上げれば、ブミプトラであるイスラム教徒マレー系民族は、中国系、インド系、の人達より大学に進学できる門が大きくとられています。これは、大学の定員が最初から、パーセントで決まっており、ブミプトラで優遇されない人達は、学力があっても入試に合格できないといった実情もあります。意外にもマレイシアは日本の数倍と感じるほど学歴社会でありますから、就職すれば給料にしても昇給にしても学歴しだいでかなり差ができてしまうのです。

このため、ブミプトラで優遇されない中国系、またインド系の人達は、ビジネス、商売などお金儲けをすることで社会的地位を確立しようとする傾向にあります。したがって、特に気の強い中国系の人達は、人間関係を作るにしても相手が自分にとってどのような利益があるかを露骨に見てくるといった感じを受けます。

このようなことから、日常生活や文化が日本人と似た中国人であっても損得をあまり考えないイスラム教徒であるマレー系の人の方が穏やかで、友好的なイメージを受けることがよくあります。いづれにせよ、民族によって、全く異なったライフスタイルと、宗教心からなる全く異なる価値観をもっていますので、私達島国でほぼ1民族である日本人にとっては、たいへん複雑と感じられる社会構造となっています。

しかし、このことはマレイシアの人達は、多くの民族の人達と交流することに慣れているということになりますので、外国人である私たち日本の協力隊員も比較的受け入れてもらい易いのではないかと私個人は感じております。

協力活動内容  −自然災害による被害

 さて、このような環境の中で活動してきた私ですが、その協力内容は、私にとっては決して満足いくものではありませんでした。私の活動要請は、海水魚の種苗生産、特にハタ類生産の技術研究ということでしたが、職場に赴任した当時は、ポンプが故障しており、また、波による浸食で施設の土地が削られ、夜間灯が波に流されている状況でした。

このポンプの修理と浸食防止の土木作業に3ヵ月掛かりました。それから、約9ヵ月間は、なんとか生産を行ったのですが、96年の12月に大型台風が私の職場であった施設を襲い、半壊し、この復旧作業に約10ヵ月も掛かりました。また、生産再開を始めた!ヵ月後には、貯水タンクが落雷に遭い、破裂落下するなど、災害に度々見舞われ、2年の間で海水を施設に引けたのがわずか11ヵ月で、これは、ハタの研究をするにはあまりにも短すぎました。

正直申し上げまして、任期中途中で帰国したい気持ちになることもありました。しかし、任期短縮せずに無事任期を満了しこのように帰国できたのは、任地スタッフの笑顔そして、私の活動を支援してくださった日本の皆様の励ましがあったからこそと思います。私は、任地でいる時によくこのように思っていました。

帰国する時、同僚の日本人の隊員に見送られることもたいへん嬉しいことですが、できれば職場のスタッフに1人でもいいから見送られてみたいと思っておりました。そうしたところ、60キロ離れた職場から5人ものスタッフが空港まで見送りにきてくれました。このことは、ここで私が作ってきた人間関係が間違っていなかったのだと感じさせてくれました。

そして、協力活動は、微々たるものに終りましたが、あのマレイシアサバ州で活動できてよかったと思いました。最後になり恐縮ですが、協力隊活動において大変お世話になった国際協力事業団の皆様、そしてその活動を支援し、見守って下さった香川県青年海外協力隊を育てる会の皆様には、心からお礼申し上げます。