帰国隊員報告          「りる」第16号より

     メキシコ           R.T.

                     平成7年1次隊

                     看護婦

 

 私は平成七年から同九年まで、看護婦として青年海外協力隊に参加しメキシコの北部ソノラ州に派遣されました。

 私の仕事は、アラモスという小さな町を拠点としてその周囲の点在する八つの村落を巡回して公衆衛生や救急法等の指導を行うことでした。

八つの村のうちバスが通っているのは二つだけなので月曜日から金曜日まではバスの通る村の一つに滞在し、そこからは馬で巡回します。週末はアラモスに戻り、講習会の準備をしてまた月曜日はもう一つの村へという生活でした。

着任してまず驚いたのはその暑さです。ソノラ州は世界でも深刻な砂漠化の進む地域で雨がほとんど降りません。年間降水量二百mmと言われていますが、減少の一途をたどり、川は干上って乾燥した大地に灌木(かんぼく)の点在する風景が多く見られます。

十二〜三月頃の三、四ヵ月を除き最高気温が五十五℃を超える事も珍しくありません。水は地下水に頼っていますが、浄化設備が小さく、告知もなく急に止まり何日も出ない事がよくありました。

飲料水は二十リットルあたり約五十円で販売されているので何とか凌(しの)げますが、日中だらだらと汗をかいた後で何日も水浴びが出来ないのは気持ち悪いものでした。

しょっ中停電しますが電気はありました。しかしどの家も貧しく部屋数だけの電球は買い揃(そろ)えられません。暗くなると、料理を作る時は台所へその後は部屋へと電気を持って移動します。

もちろん村には電話もテレビも街灯もありません。夜は本当に月明りだけの静かな世界になります。カトレと呼ばれる麻の簡易ベッドを広げて外で寝るのですが、月が眩(まぶ)しい程光り、たくさんの星が空一杯に広がる様子は眠ってしまうのがもったいない程です。

 村の人々は皆好奇心が大変強いようでした。もちろん、人が集まっておしゃべりしたりする他は、結婚式やお祭りくらいしか娯楽のない場所ですから、見たこともない東洋人がやって来ればもう放っておけないのです。

 電話はなくともそういう情報が伝わるのは早いもので、昼頃村につけば、夕方には村中が知っています。変な東洋人を見ようと入れかわり立ちかわりやってきては色々な質問を投げかけてゆきます。

「日本まで馬で何日位がかるか?」
「日本に牛は何頭いるか?」
「日本は中国のどのあたりにあるのか?」

等々です。全体的に開放的で親しみやすい人が多いということを実感しました。

うれしかったのは、どの村でも私の拙(つたな)いスペイン語による講習会に大勢参加してくれ、多くの質問をしながら一生懸命聴いてくれたことでした。協力隊に参加し体験した事などあまりにも多く、全てを報告したいのですが自分の文章力ではそれもままならず力不足を痛感します。

 任地での生活や人々の暮らしぶりをここに紹介させていただきましたが、最後に最も印象深い体験の一つを報告したいと思います。メキシコは他の中米諸国と比べると少ないのですが、やはり存在するのは「東洋人蔑視(べっし)」です。ごく一部の人にすぎませんが、東洋人だからという理由で差別をする人がいます。

道で会う人が目尻を指で吊り上げ東洋人の真似をしたり、バスに最後に乗せられたりなど些細(ささい)な事ですが、その時は、こんなに親切で開放的な明るい人達の住む国が嫌いになってしまいました。

幸い私の周囲には、そうでない人が多く、いつも私を助け親切にしてくれるため、そうした感情は一時的なものでした。しかし、もしもそういう人が居なければ、私はメキシコが嫌いになっていたでしょう。常に差別され続けていれば、本当に醜(みにく)いことですが差別を仕返すという事もあったかも知れません。

実際に自分が経験し悔(くや)しく思った事で初めてその行為の愚かさを痛感しました。経済、発展の状態、皮膚の色、国籍、文化の違いなど本来同じものなどないはずなのに、当然の違いを横ではなく上下に並べようとする。差別はいけない、悪い事だと誰でもが知っています。

しかし、それがどんなに愚かな行為であるか実感できたというのは、本当に貴重な体験だったと思います。任地において、日本との文化、習慣の違いや考え方などから学んだものもたくさんあります。

 協力隊に参加し教えたことより教わった事の方が多かったとは良く言われますが、まさにその通りです。任地で出会った全ての人が、私に様々な事を教えてくれる先生でした。

 二年間の活動を常に見守り支えて下さった、育てる会の皆様とメキシコの全ての人々に感謝を捧げたいと思います。大変お世話になりました。本当にありがとうございます。