帰国隊員報告                 「りる」第32号より

                                                    モロッコ   H.A
                                                             平成12年度2次隊
                                     農業土木
                                                                

 こんにちは。私は2000年12月から2002年12月までの2年間、北アフリカに位置するモロッコ王国で農業土木隊員として活動してきました。モロッコの紹介と活動報告、そしてモロッコで感じた事を紹介したいと思います。

 モロッコと言えば、性転換手術の国と言うイメージがあると思います。さらにモンゴルと間違っている方もいましたので、まずはモロッコをより良く知ってもらうため簡単に紹介したいと思います。

 先に述べたように、モロッコはアフリカ大陸にありますが、皆さんがアフリカに対して持っているイメージとかなり違う国だと思います。なぜなら、モロッコ人の大部分は黒人ではなく先住民のベルベル人やアラブ人です。イラクの映像をテレビで見る事ができますが、そこに映っている人々とほとんど同じ顔です。さらに、イスラム教を信仰し言葉もアラビア語を話すため、モロッコはアラブ諸国の一つと言えます。

 また、「アフリカと言えば砂漠」とか「アフリカは暑い」と言うイメージですが、モロッコには富士山よりも高い4000m級の山脈が連なり、冬には雪が降りスキーもできます。ただ、モロッコ南部にはサハラ砂漠の西端がかかりオアシスを中心に砂漠観光は盛んに行われていますし、夏場の気温は50度を越えることもあります。

 都市部に目を移すと、映画好きの方はご存知かと思いますが、商業都市カサブランカや世界遺産にも登録されている迷宮都市フェズ・マラケシュにはおよそ100万人の人々が生活しています。高松市が30万人ぐらいですから大都市と言えます。フランスの植民地だったせいか町並みもお洒落(しゃれ)でカフェなども多く、観光地ではフランス人やスペイン人などたくさんの観光客を見る事が出来ます。

 さて本題の活動報告に移りますが、私の活動任地はカサブランカなどの大都市ではなく、モロッコ国内でも最も貧しいと言われている地域で、山に囲まれた村でした。村では、教育が進んでないせいか一部の村人にしかフランス語は通用せず、アラビア語やベルベル語が日常的に使われていました。村内の大部分には電気・ガス・水道・電話が整備されてなく、道路も未舗装で道幅も狭く勾配がきついため車両通行はできず、主な交通手段はロバ・ラバ・徒歩のみという状態でした。

 私はこのような村の村役場に農業土木技師として配属されていました。現地技術者は2人で、彼らを中心に公共事業の全てが行われていました。私の主な活動内容は村内のインフラ整備・灌漑(かんがい)整備・植林事業・上水道整備でしたが、現地技術者の仕事や頼まれ事は、ほとんど手伝うことにしていました。具体的には、業者との契約や金銭交渉以外は全ての事に携わっていました。事前調査や設計・施工管理など現場中心の活動に重きを置いていました。契約や金銭交渉までできれば良かったのですが、そこにはやはり言葉の壁がありました。

現場までは片道3〜4時間の道のりを歩いて行くこともありました。標高差は500m程あり、道も獣道です。さらに、夏場は気温が40度以上になりラマダンと言う断食月には日中水すら飲めないのでなかなか骨が折れることでした。しかし、そのような過酷な条件の中でも現場の人達はいつも笑顔で仕事をしており、我々を迎えてくれ「よく来たな。」「疲れたか?」とお茶やパンをご馳走してくれました。

 ここで少し心に残るエピソードを紹介したいと思います。私は現場に行くときに必ず付いて来てくれる同僚がいました。その日も上水道の調査のため、一緒に現場に向かっていました。その日、私のポケットには飴が一つあり、休憩のとき普通に彼に飴をあげると、彼もまた普通にその飴を石で半分に割り私に渡してくれたのでした。この行動は私には衝撃的でちょっと考えさせられることでした。

 私の方針として日本の援助金は使わない事にしていました。村の予算はある程度ありましたが他の国や地域と同様に、設備と言えるものも何一つ無かったです。測量機器やパソコンはもちろん電卓も無いありさまでした。村の2人の技術者は優秀な人間で向上心もありましたが、村の村長や議員には自分の保身や見栄が優先して予算の使い方に首をかしげることが多かったです。

 私の任期中に、アメリカ同時多発テロが起きました。お昼頃ボーっとしていたら、同僚が真剣な顔で「ペンタゴンに飛行機が落ちた。」とか「ニューヨークが燃えている。」と言って来ました。何を言ってるんかと最初は無視していましたが、彼らに近くのカフェに連れて行かれテレビを見せられました。そこにいたモロッコ人は「ざまあみろ。」とか「いい事だ。」と言っていました。

テロ直後モロッコでは、日本赤軍がテロを起こしたと報道されていたようでした。当時つらかった事は、「お前はイスラムとアメリカのどっちの味方なんだ?」と聞かれた事でした。イスラムの反米感情を垣間見る事が出来ましたが、悲しい出来事でした。その反面、敬虔(けいけん)なイスラム教徒の友達は「残念だ。」「イスラムは平和を愛するんだよ。」と教えてくれました。それに村人のほとんどは、山奥に住んでおりテレビはもちろん電気も無いところです。

彼らの時間の流れはいつも同じで、世界の喧騒とは無縁の状態で、ある意味うらやましいと思いました。現場では、いつも通りの会話が行われお茶を飲みながら談笑してと、言った具合でした。

 普段の私はと言うと、村人と変わらない生活し、村人の一部になり、かなりの人気者でした。家から職場までは普通に歩いて5分かからない距離なのですが、朝はすれ違う村人と挨拶をしながら行くので10分はかかってしまいます。

下手をすると、お茶を飲んで朝ご飯を食べてという事になり30分ぐらいかかる事もありました。遅刻かと心配する方もいるかもしれませんが、誘ってくるのは同僚達であり断る方が失礼なようです。職場に着くと同僚の子供たちが職場内を走り周り、大人達は仕事もせず子供たちと遊んでいるといった風景は日常でした。

 「郷に入れば郷に従え」ではないですが、私の存在を彼らに受け入れてもらわなければ何もできないのです。まず言えることは、日本のシステムや考えを2年と言う短期間で他国に持ち込む事は困難です。要するに、長い時間をかけお互いにお互いの文化や慣習を知り合いお互いに国際理解する事が大切だと思います。

私は多くの人から「向こうで何をしてきたんだ?」と聞かれましたが「向こうで何を得てきたんだ?」と尋ねる人はいませんでした。はっきり言って、私が彼らに与えた物はちょっとした構造物だけですが、彼らは私に人に対する優しさとたくましさを教えてくれました。ほとんどの隊員が、満足のいく結果を残せないままに任期を終え帰国すると思います。

特に教育関係の隊員は、目に見える結果が残しにくいものです。ただ、私が思うに、限られた期間ですが日本とは全く違う環境で生活するという事はそれだけで価値のあることですし、どのような形であれ、無事日本に帰国する事が最も大切な事だと思います。成果や結果や見栄を国際協力や国際理解に求めるものではないように思うのです。

 大使館職員が言っていましたが、「協力隊は地域に根ざした活動を行っているので我々より何倍もよく知っている。」と。最近、イラクヘの自衛隊派遣の話が連日ニュースになっていますが、国会議員や官僚達が住民レベルで話を聞きイラク国民やイスラム教徒の真意を確かめているとは思えません。見栄や結果を求めるあまり急ごしらえの法案であるかのように思います。我々の活動とのギャップを感じますし、反米感情の強い中近東では「アメリカの味方=イスラムの敵」とみなされるため活動に支障をきたす隊員もいるかと思います。

 活動報告とは話しがずれてしまいましたが、モロッコは楽しいところです。最初にも書きましたが観光地もたくさんありますし食べ物も日本人好みです。ただ、飛行機で15時間以上かかるのがネックですが。私もモロッコが大好きですし、2年間暮らした山奥の村が大好きです。時間とお金に余裕があれば是非観光で行って下さい。

 最後になりましたが活動期間中、育てる会や県の国際交流課をはじめ様々な方のご協力・ご理解、本当にありがとうございました。そしてこれからもよろしくおねがいいたします。