ネパールのビール          「りる」第7号より

     ネパール         T.K.

                     昭和58年年2次隊

                     理数科教師

 

 高松砂漠が水不足にあえいでいた七月末、研修旅行で北海道を訪れる機会を得た。私はその旅の副産物として、九年前ヘタイムスリップするという懐かしくも苦々しい体験をした。

 その物語のオープニングは職場の先輩と私が離陸直後の飛行機の中で、雑談をする場面である。ヒッチコックの映画なら翼の上に怪獣がいてエンジンをかじり始めるのだが、現実は、先輩が私に一冊の本を見せ「ネパールのことが書いてあるから読んでみたら」と、勧めるのである。題は『ネパールのビール』副題に「九十一年ベストエッセイ」とある。中をあけると、短編のエッセイがぎっしり並んでいて、最後のエッセイがY.N.さんの書いた本題の作品である。

 Yさんと知り会ったのは、昭和六十年の夏、場所はネパールのドラカ村だった。私が青年海外協力隊員として二年の任期を終えようとしていた頃である。彼はNHKスペシャルのチーフディレクターとして、ネパールに番組製作のためにカメラマン違と一緒にやってきた。番組のモチーフは、私が理数科教師として教えていたドラカ村の学校で昭和五十八年まで協力隊員として活動していた「H.H」さんが、二年ぶりに訪問し村人との再会を喜ぶというものである。私も脇役として番組に出演させていただいたが、『事件』はそのクライマックスで起きるのである。

 まだエンディングには早すぎるので、先にYさんが書かれたエッセイの紹介をしよう。彼が番組の中で学校の生徒の中から、その下宿生活を紹介するのに選んだのがチェトリという若者である。チェトリとYさんは言葉は通じないものの仲良くなり、ある日番組のスタッフがビールが飲みたいと話していたのがチェトリ君の耳にはいる。彼は、往復一時間半かかる山道を酒屋まで買いに行くのである。

 「何だ、どこにでもある美談だなあ。」と思って読んでいる方も多いだろうが、話はこれから佳境に入る。このエッセイの結末を書いてしまうと、私の駄文が余計にまずく感じられる読者がいては困るのでここで止める。

 さて、話をもとにもどしてNHKスペシャル『ヒマラヤ、ドラカ村は今』(昭和六十年十月十一日放映)の撮影秘話をいよいよ明かそう。読者をじらす訳ではないが、この番組の撮影中に『日航機墜落事故』が起きた。短波放送でNHKの海外向けニュースが衝撃の一報をネパールにも届けた。でも私には、それには劣るものの忘れられない『事件』がある。これを活字にすることは、筆を走らせている今でも迷いがある。書くことの重荷を少し減らしてくれるのは、文芸春秋社のエッセイ集のYさんの肩書きが『元NHK特別主幹』だったことだけである。

 これより後の言葉は単なる個人批判と受け取られても仕方がないと思っている。しかし九年間、番組のビデオテープをみる度に虚像の自分が映り、ビデオを見ている自分に対してその罪を責めてくるのである。この番組をご覧になっていない方には、全くわからない話なので退屈したらページをめくって欲しい。

 番組のラストシーンでドラカ村の北に位置する峠の休息所で老人に数の数え方を教えている私が出演する。この場面の撮影には様々なエピソードがあり、何から書いてよいのかわからない。しかし事実は事実として主観ぬきで伝えねばならない。私にも当時はテレビ俳優になったような驕りがあったから、自分の記憶と事実認識が客観的であるとは言い難いが、あえて『老人』の為だと信じて書くことにする。

  数学の授業風景


 授業風景の撮影がほぼ終わりに近づいた頃一人のカメラマンが、その老人が出演する場面をぜひ撮りたいと言いだした。当時、日本では生涯学習が叫ばれ始めたときだったのか私がその老人に何か教えているシーンを撮ることに決まった。私は彼が、難聴で言葉が話せない障害者だということを話したが、彼の表情が良いのでぜひ出演させたいと押し切られた。私ももっと反抗すれば良かったのかも知れない。一日目の撮影が終わった後、「今日のシーンは小学校低学年のレベルの学習だから、もう少し高度な内容を教えてくれないか。」とY氏に言われた。

 「それでは人物を変えてやり直せばいい。私は番組を観る人をこれ以上だますのには賛同できない。」と応えると、「君はネパールに協力隊として派遣されているのに、まるで不協力隊員だな。」と反論された。

十年近く前の話で、今考えると私は「不協力」ではなく「非協力」であったのだ。因みにY氏のエッセイは文芸春秋の九十一年一月号で『特集・私がいちばん泣いた話』に載ったものである。

 ネパールでの撮影は大変な労苦があっただろう。しかし、美談のみをおみやげに帰国されたとしたら、自分も含めて日本人の心の貧しさを嘆き悲しんだ一人の青年海外協力隊員がいたことを忘れないで欲しい。

 何としても私は最後の一言が是非言いたかった。

  朝礼に集まった生徒達