ネパールでの活動日記   「りる」第30号より

                                                    ネパール    K.T.
                                                             平成13年度1次隊
                                     果樹

                                                               

 去年の7月14日に両親に見送られ高松駅を東京に向け発ってから早一年と3ヶ月が経ってしまった。任期の折り返し地点を過ぎて、「もっと自分は頑張れるはずだ」という焦りに追われて日々活動をしていることに気付く。しかし当然ではあるが経ってしまった時間をやり直せるわけではなく、残り一年への焦りを感じているときにこれまでに書き溜めた日記ページをペラペラとめくり、これまでの活動期間を振り返ってみた。ネパールで購入した手漉きの紙でできたお世辞にも品質がよいとは言えないそのノートのページをめくりながら、常に活動への焦りを感じながらも、その時その時でそれなりにいろいろなことを考えていると思い、折り返し地点が過ぎていることへの実感を持った。

 平成13年7月16日、分厚い雲を抜け着陸態勢に入った飛行機の窓から、ネパールの首都カトマンズのレンガ造りの町並みが見えてきた。当時ネパールはまだ雨季の真っ最中で、トリブヴァン国際空港に降り立ったころには、しとしとと雨が降っていた。街中を歩いてまず思った事は空気と水の汚さである。黒い煙を吐きながら走るバスやテンプー(三輪タクシー)、隊員宿泊所の蛇口から出る水は黄色を帯びており、白いシャツを洗濯するとべージュに染まる。その水をフィルターに通して、煮沸してからでないとうがいをするのも危険であるとのことであった。 一日で日本に居たころの1ヶ月分くらい汚れた靴と鼻の穴の掃除に使用して真っ黒になったティッシュペーパーを見ながら、果たしてこの国で2年間健康に過ごせるのかどうか不安になった。

 小さなカルチャーショックに様々な所で出くわしつつ、ネパールに来て2週間が経ったころ、かつて経験したことのないような猛烈な下痢に襲われ、宿泊所から出られない日々が4日間ほど続いた。何が原因がは分からないが、ネパールに生息している大腸菌の洗礼を受けたのだろう。また栄養状態が悪いせいか、蚊に刺されたような小さな傷口が体中で一度に5箇所ほど化膿し、直径2センチほどの腫れ物になり、そのまま一月ほど治らなかった。この時の日記を読んでみると、情けない話であるが、最初のホームシックに襲われていたらしく弱気な記述がノート2ページ分くらいに渡ってビッシリと書かれていた。

 さて食生活の話になるが、この国の食事はダルバートと呼ばれるものが一般的で、ご飯(インディカ米)にダルと呼ばれる塩とスパイスで味をつけた豆のスープをかけ、それにカレー味の野菜の妙め物や肉のカレーを混ぜて食べるこの料理は、なかなか美味しく感じられ、食生活は問題ないと思っていたが、朝と夜の一日2食ひたすらダルバートだったので、赴任して3週間も経つころにはさすがに辛くなってきた。しかしどんなに料理に飽きても、空腹感は訪れるもので、ネパールに来て15ヶ月が経とうとしている今に至るまでダルバートを食べ続けている。全体的に生活レベルは首都カトマンズにおいては高く、日本食レストランもあれば、醤油などの食材も入手可能であり、現地のプロバイダと契約したため電話線があればいつでも日本の家族や友達にEメールを送ることができる。同期隊員での中では他の国に行った隊員も含めて、生活環境はかなり恵まれているほうであると思う。

ネパールの食事    ダルバートと呼ばれるもので、ダル(豆のスープ)が付いたご飯(ネパール語でバート)の総称。味付けは塩味とニンニクが少しきついカレー味。大皿右上がダル

 私の活動についてであるが、任地は首都カトマンズから東へ40キロ (バスで1時間半)のところにあるカブレ郡ドゥリケルというところであった。過去形になっているこのことについては後で触れることとして、活動内容は日本ナシとカキの農民への普及ということであった。かつてネパールでは日本のプロジェクト式技術協力として、カトマンズにあるキルティプル園芸センターに、ブドウ、ナシ、カキ、カンキツ類などの果物の日本の品種が導入され、栽培試験や現地普及員への研修などが行なわれた。私の活動への要請内容としてはそれらの品種(主にカキ)の農家レベルヘの普及であった。

 私の任地では先輩隊員が一年前にカキに重点を置き農家に苗を配布し定植したところであり、仕事としては植栽した苗の管理指導と新たな農民グループを組織しての定植であった。

 しかしほとんどのネパールの農家にとっては果物とは「畑の隅や庭先に植えておいて放っておき成った果実を木に登ったり棒で叩き落して収穫するもの」であり、手間をかけて管理をするものではないというのが一般的なイメージで、ほとんどの農家はまともに植えた苗を見ようともせず、私が赴任したときにはすでに半年前に植えた苗の中でも枯れていたものが多かった。もちろん管理の問題だけではない。ネパールは日本にはない雨季があり、6月から9月の間は多量の雨が降る。大部分の果樹は生育期間中に雨が多いと病害虫が多発したり、過湿により根が痛められたりして被害を被ることが多い。畑に排水用の溝をマメに掘ったり、草抜きをしっかりとやる人の畑はほとんどの苗が順調に生育していたのであるが、植えたきり放って置かれ、ひどいところでは畑の何処に植えたのかすらも忘れ去られ、雑草に埋もれて枯死していた苗を何本も見た。活動は前途多難であったが、少しでも農家の果物に対する考えが変わってくれればもうけものと、かなり楽観的に活動のスタートを切った。

 農村への巡回にも慣れ、14年度の春に新たに定植する村での生産グループ作りを始めようとしていた平成13年11月末、ネパールで突然の国家非常事態宣言が発令された。この国では数年前から毛沢東思想に影響を受けた共産主義の過激派(マオイスト)が勢力を拡大しており、地方で警察署や銀行などへの襲撃を繰り返していた。非常事態宣言発令のきっかけは地方の軍隊の基地が襲撃され、武器類が大量に奪われたことによるものであった。発令後すぐに軍隊が街を警備し、幹線道路などでは検問のため渋滞ができるようになった。当時私が住んでいたアパートの向かい側の公園も、軍隊の仮設基地のようなものが建設され、夜間は銃声(軍隊は空砲だと言っていたが)により目を覚ますといったことが起こるようになっていた。JICAネパール事務所からの指示で当分の間農村への巡回が禁止されるとともに、当時ネパールで活動していた隊員はすべて首都カトマンズに集められ、活動再開が許可されるまでの間、カトマンズの隊員宿泊所での生活を余儀なくされた。連日のように飛び込んでくるマオイスト関連のニュースや新聞記事に、いつ活動が再開できるかという不安や焦りが日々募っていった。

ネパールの首都カトマンズ近郊にある隊員任地の田園風景


 結局約3週間後の12月19日になって、やっと事務所側からの許可がおりて隊員はそれぞれに任地へ戻り、活動を再開した。私の任地も巡回が認められたのが以前のフィールドの半分ぐらいになり、時間帯などの制約をうけ、窮屈な思いをしながらもなんとか、ナシの整枝剪定や前年に枯死した苗と、新たな村へ約400本の苗の定植、ローカルの渋柿樹への高按ぎ更新、そして来年に向けての苗づくりなどの仕事を休日返上で終わらせ、ホッと一息ついたころに、私の巡回していた村の近くの養蚕センターが夜間マオイストに襲撃され、死者やけが人は出なかったものの、車が2台燃やされ、部屋にあったテレビやコンピューターが盗まれるという事件が起きた。この養蚕センターには、JICAの援助も入っており、専門家も派遣される予定だったため、この時受けたショックは大きかった。当然その地域への巡回も断念せざるを得なくなり、さらに日本大使館の援助により現在日本の企業によって建設中のシンドゥリ道路でも爆弾が爆発し、その地域へも行けなくなってしまった。そのシンドゥリ道路沿いの村こそが、甘カキの試食会から始まり、活動再開後、集中的に巡回し、新たなグループを作ってカキの苗を植えた村であった。

 結局私の任地であるカブレ郡ドゥリケルからは我々青年海外協力隊は当分の間撤退することになり、私の任地もかつて日本の技術協力が入っていたキルティプル園芸センターへと変わることになった。

 このマオイスト問題を考えた時に、やはり近年言われている途上国内での経済格差というものがあると思う。ネパールでもここ数年でカトマンズやポカラなどの都市部ではインフラ整備などが進み、電気や電話、インターネットなども問題なく使えるような環境になっており、中国や韓国から電化製品や自動車などが大量に入ってきている。カトマンズでは自家用車を持てる人が増えており、交通渋滞や大気汚染などの新たな問題も出てきている。しかし、首都カトマンズを離れてバスで15分ほど行くと、末だに電気もなく、薪で食事を作っている村などもある。地方の村でも、かつては素朴な自給農民であった村人達に、拝金主義の波が押し寄せ、テレビや雑誌等で情報が氾濫し、物質的に豊かになりたいという願望が増大されたのだと思う。しかしネパールには観光以外に大きな産業も無く、定期的に安定した収人を得ている人はかなり少ない。学校を卒業した若い人達が、仕事を求めて首都カトマンズに来たり、外国へ不法就労に出たりすることがかなり多いのもそのためである。発展途上国というカテゴリーの国には、ネパールのように、現在の段階が、国民全体の経済的なレベルが上がるというよりは、特定の人のみが豊かになっている(金儲けをしている)状態の国も多いのではないだろうか。

 ネパールは世界でも最大規模の被援助国で、毎年様々な国や援助機関から多額の援助が舞い込んでいる。そして政治家や官僚は腐敗しており、彼らに対しての国民の信頼度はおおむね低いと思われる。情報が氾濫し、物質的な欲求は強まる、学校を出ても職に就ける人は僅かであり、政治家や官僚は信用できず、彼らに任せておいたところで自分達の生活が豊かになるとは思えない。この未来に対しての不安や希望の無さが、権力や金の流れから外れた村人たちをマオイストというテロリスト(非常事態宣言の発令以降、彼らはテロリストとして正式に扱われている)に変えてしまっているのだと思う。そしてODAという名の大きな金の流れも、またこの問題に決して無関係ではないと思う。そしてそのODA予算により活動をさせてもらっている私自身もである。 一時期はこのことでかなり悩み、任期を短縮して帰国も考えたが、現在の果物の仕事がまだ途中で、やり残したこともあり、このまま帰ったのではこれまで関わった農家の人々へ申しわけがないと自分に言い訳をして活動してきている。 現在でも軍隊によるマオイスト掃討作戦は続いており、テレビやラジオ、新聞の報道で、マオイストや軍隊、警察、そして民間人の死者が出たというニュースを頻繁に聞くようになって久しい。我々協力隊員が派遣されていないような地区では今この時にでも自国民同士での殺し合いが続き、多くの血が流れていることだろう。

 最近の各国で活動している青年海外協力隊のうち、政情不安により引き揚げを余儀なくされた例がいくつか存在する。ソロモン諸島、コートジボアール、そして記憶に新しいのがアメリカ軍のアフガン空爆により一時退避し、現在は任地に戻ったようであるがパキスタン。平和であってこその協力隊活動であり、隊員の仕事とは、着任した任地でじっくり腰を据え、その土地のためにできることを探しながら、土地の人々と共に過ごして任期をまっとうして日本に帰国するのが一番であると思う。

 農家へ巡回してカキをチェックする隊員。写真は日本より技術協力による園芸開発プロジェクトにより導入された品質 ’富有’

 現在私はキルティプル園芸センターの周辺の村へ行き、これまでと同じような活動をしている。しかし今でもかつての任地であるドゥリケル周辺の村の様子や、今年植えた苗のことが気になることがよくある。 一度愛着を持ってしまった土地を離れるというのはかなり辛く、そして悔いが残るものである。 しかし現実を受け入れ、一日も早く新しい任地になじめるよう努力するしかない。これまで同様焦りと苛立ちには常に追われることになると思うが、活動日記の後半は完全燃焼した日々を綴れるよう残り任期頑張っていくと共に、 一日も早く治安による制約なしに農村を歩き回り、多くの農家と接して思いっきり活動ができるような日々が戻ることを祈りたい。