帰国隊員報告        「りる」第38号より

                                                    ネパール    K.T.
                                                             平成13年度1次隊
                                     果樹

                                                               

『ネパールの農業とその後の柿栽培の普及活動について』

 私は平成13年の7月から2年間、ネパール王国で果樹栽培の普及の仕事に携わっていた。何号か前の「りる」に寄稿させてもらった「協力隊活動日記前編」で前半の活動と、私の任国について紹介したが、今回はその後編ということで、ネパールの果物生産、そしてその後の柿の普及活動について述べたい。

ネパールの農業とJICAとの関わり

ネパールは人口の大半が農業に従事している。しかしオーストラリアなどのように農産物を輸出して外貨を得るような国ではなく、自分達が食べる分を生産、消費し、生活している自給農民で人口のほとんどが構成されている国である。その他は、観光業くらいしか外貨を獲得できるような産業はなく、古くからネパール政府や援助団体は、農業開発に重点を置き開発を進めてきた。

 ここでネパールの果樹生産について触れておきたい。ネパールは大変に起伏に富んだ地形をしており、標高だけを見ても南部の約80mからエベレストの8848mまで多岐に渡るため、生育している作物の種類も非常に多様性に富んでいる。南のタライ地方ではマンゴーやパパイヤなどの熱帯果樹が生産されており、特にマンゴーは6月から7月にかけてマーケットを彩る人気の果物である。そのタライ地方から少し北上するとオレンジなどの柑橘類の産地があり、その地域ではポンカンやオレンジなどが農家の重要な収入源となっている。しかしさらに北上したカトマンズ盆地周辺になるとマンゴーやオレンジは寒すぎるため品質の良いものが生産できず、こと果物栽培に限って言えば、付加価値の高い作物は無かった。

 私が派遣された首都であるカトマンズ周辺の農村地帯では、特に果樹生産において私が派遣される以前から、長期間に渡って、「園芸開発計画」という大規模なJICAのプロジェクトが行われていた。カトマンズにあるキルティプル園芸センター(日本でいう試験場のような存在)において、導入する果樹の適応性の評価や、現地の技術スタッフヘの研修による技術移転、そして展示圃場(ほじょう)を各地に開くなどの事業で大きな成果を上げていたが、農家を対象とした組織的な普及には至っていなかった。

 私が赴任したのは、ちょうど農民グループを対象とした組織的な果樹の普及が当時活動していた隊員達によって始まったばかりの頃であった。当時活動していたのは、上記の「園芸開発計画」のフォローアップとして赴任していたシニア隊員を中心とした青年海外協力隊員数名であった。シニア隊員とはよくシニア海外ボランティアと間違われることが多いが、協力隊のOBがなることが多いポストで、語学や実務などの面で協力隊員よりも高いレベルが求められる仕事をする隊員で、青年海外協力隊員とJICA専門家との間のようなポジションのことである。そのシニア隊員が柿に重点を置いて農家レベルヘの普及を本格的に始めた時に私は赴任し、活動を開始した。

ネパールに何故柿を?

 「園芸開発計画」において、多くの果物の品種が日本から導入され、その品質は現地のネパール人からも大変好評であったが、ブドウやモモなどは雨季に多量の雨が降るネパールでは難しく、何よりも輸送インフラの乏しいネパールの山村では、たとえ収穫ができても輸送の痛みによる損失が大きい。ナシは当時の専門家の方々の努力により、整枝、剪定(せんてい)などをネパール式に改良した栽培技術が確立されていたが、やはりネパールにそれまであった他の果樹よりは手間がかかりすぎるのか、栽培面積は増加していたが、きちんと収量を上げられる農家は限られていた。そのため大規模な普及対象というよりは、少量生産で高級な果実という位置付けてあった。それらに対して柿は、適応地が広く、管理の手間もそれほどかからない。日本でよく庭先に植えられたままでもたくさんの実をつけた樹をよく見ることがあるが、それもカキがある程度の放任でもよく育つからであり、これがブドウや梨、桃であればそうはいかないであろう。

 柿はネパール語でハルワベッドという。ハルワというお菓子の一種のような果物という意味らしいが、柿というネパール語が存在するということは、ネパール人にとって、柿はそれほど新しいものではなく、首都カトマンズ周辺だけではあるが、人々にとって馴染みのあるものであった。ネパールにおける柿の起源は、日本から持ち込まれた種が最初であるというものが有力である。今から約100年前、ネパールから日本に初めて正式に留学した学生が日本の植物の種を数種類ネパールに持ち帰り、その中に柿があり、それが伝播して行ったと言われている。

そのため、カトマンズ盆地を始め、周辺の農村部では柿の樹を見かけることが多かった。しかしもともとどんな種類の柿だったにせよ、種で増やしたため、すべて渋柿となってしまい、そのためネパール人が持っている柿のイメージとしては、「渋くそのままでは食べられないが、熟して柔らかくなって初めて食べられる果物」というものである。しかし収穫期とネパールのお祭りが重なるため、お供え物としては重宝されていた。柿が、ネパールの人々にとって馴染みがあるということが、様々な面で普及を行う上の追い風になっていた。

柿の栽培普及活動

 しかしすんなりと普及に移せるものではなかった。「桃栗3年柿8年」という言葉があるが、それは種を撒いた時の話で、苗を植えた場合は3年ほどで実が採れ始める。畑にカキの苗を植えて、その苗が大きくなるまでの期間、苗の間の土地を放っておくわけにもいかず、農家は苗と苗の間に何か作物(間作作物)を植えようとする。ここで多くの農家は手間のかからないトウモロコシを植えてしまう。

しかし高さ2メートル以上に育つトウモロコシを苗のすぐ近くまで植えられたため、カキの苗はほとんどが枯れてしまうという問題が起きた。空いた土地を作りたくない気持ちは分かるが、カキの苗が枯れてしまったのでは元も子も無い。そこで間作作物にも、柿の生育の邪魔をせず、さらに付加価値の高い作物の栽培指導が必要ということになり、間作作物として野菜栽培の指導を行う隊員と、果樹(柿)の栽培指導を行う隊員を組み合わせた青年海外協力隊のグループ派遣「園芸普及計画」が前述のシニア隊員によって立ち上げられた。

 このプロジェクトが始まった時、私は首都カトマンズから東へ40キロの地点にあるドゥリケルという街で活動していたが、治安問題の悪化に伴い、首都カトマンズヘ移動になったため、新しい任地でプロジェクトの一員として柿の普及に取り組むことになった。

 本格的に指導し始めた「園芸普及計画」であったが、発足当初の対象地域4ヶ所に、野菜栽培の指導を行うための隊員が常駐し、1週間に2〜3日程度、果樹栽培の指導を行う隊員が巡回するという形式で始まった。

 当時すでに前回のプロジェクト式技術協力である「園芸開発計画」が終了してから3年近く経っていたため、すでにネパール政府の農場から来た苗を植えている農家もおり、そのような農家への栽培管理の指導と、上述したネパールの柿に接木を行って日本の甘柿品種に更新、そして新たな農民グループを組織しての苗の植え付けというものであった。

 まず既に甘柿を植えている農家を回っての巡回指導であったが、主な管理作業といえば、病害虫の防除と、剪定などの枝の管理であった。カトマンズ周辺では、雨季に大量の降雨のため多くの病気が出る。日本のように殺菌剤を用いると言っても、散布用のスプレーを持っていない人も多い。さらに農薬散布を安全に行うためのマスクなどを持っている人となるとさらに少なくなる。現金収入が少ない多くの農家にとって、そのような「初期投資」すら大きな負担になる。元々JICAという援助機関のプロジェクトということで、いろいろと期待されることも多く、「柿を植えたら灌漑(かんがい)設備を作ってもらえるのか?」や「苗の代金や、必要なスプレー、鋏(はさみ)、ノコギリなどもJICAで買ってもらえないのか?」のことを言われることが多く、中々難しいところであった。結局できるだけ手間のかからないように、病気に関しては薬剤による防除を控え、樹の幹に発生するような深刻な病気に対してのみ予防をおこなうような防除にした。

害虫については、すでに成木になっていた梨の園で深刻であった。実に袋を掛けないと、ほとんど収穫できず、多くの農家は新聞紙で袋を作っていたが、ネパールの新聞は日本のそれよりも薄く、2重にしないといけなかったが、やはり収穫が無くなるほどの問題なので、農家も真剣に取り組んでいた。しかし虫は防げても、鳥は紙袋など破って食べてしまう。日本であれば、梨の畑ごとネットで覆うようなことも可能であろうが、ネパールでは無理な話である。ネットを買うこと自体、大きな生産コストとなってしまい、採算が合わない可能性もある。

そのように頭を悩ませていた時に、ある農家が自発的に鳥を防ぐ方法を考え、実践した。それは新聞紙で作った袋の上から、目の細かいネットで同じサイズの袋を作り、掛けるというものであった(写真1)。単純ではあるが、当時の私には思いつかなかった発想であり、かなり驚かされた。何よりもネットを買うとなるとかなり高額の出費を覚悟せねばならないのではと考えたが、思ったよりも安く、大きなネットを買うことができることを知った。

写真1

ネパールの新聞紙で作った袋の上に、蚊帳用のネットでさらに保護された梨。

虫と鳥の被害が多いネパールではこれくらいしないと梨を作るのは難しい。


というのも、ネパールでは特に夏の間は、大量の蚊が出るため、日本のように蚊取り線香などが普及しておらず、多くの人はベッドの上に蚊帳を吊るして蚊を防ぐため、商店街に行けば、蚊帳用のネットが平均的なネパール人の手の出る価格で売っているのである。アパートで蚊取り線香を毎晩炊いていた私には当時考えつかなかった。さらにそのネットの袋は一度作れば、3年くらいは使うことができるので、生産量が上がれば、それほど大きな生産コストにはならないとのことであった。

 柿の仕事のうち、すでにある渋柿の成木を一度切り、幹から上に日本の品種を接木するという仕事は、かなり現地の農家の関心を引くことができた(写真2)。

写真2

接木直後の柿 

テープで巻いてある部分で引っ付けてある。テープより上が日本の柿’富有’ 下はネパールでとれた柿の種を採り、撒いて2年たったもの。


接木とは外科手術のようなもので、木を削って切り口同士の組織を引っ付けることである。果樹や野菜などの多くの園芸作物では、この方法で苗を作る。「園芸開発計画」で導入した柿の木から取った枝を大量に増やすことができ、とても有効な技術である。一本の木を日本の品種に変えると、2年後には実が成るため、周辺農家も含めたデモンストレーション効果も絶大となる。これにより接木を習いたいという農家も多く、講習会を行なったが、これは過去に無いほどの多くの農家が来てくれた(写真3)。

写真3

木の講習会の様子 

ネパールの農家にとって、接木を見るのは初めての人がほとんどで、皆熱心に聞いてくれた。1年前から計画した講習会で実演のあと一人5本づつくらい実際に接いでもらった。


 新しい農民グループに対しては、まず秋に甘柿を食べたことが無い人に対して、試食会を行なった。果実は園芸センターのものや早くから栽培を開始した農家から買い取ってそれを用いた(写真4)。

写真4

ネパールで収穫された日本の品種’次郎’。

サクサクとした食感はネパール人にも大うけで、現在は生産量も少ないため、市場では高値で取引されている


見た目はネパールの渋柿と変わらないのが、サクサクとした食感のまま甘い日本の甘柿の味は食べた人に大きな衝撃を与えるのは当然のことで、これで植えたい人を集め、植付けや栽培について説明をし、農民グループを組織して植え付けるというものであった(写真5)。

写真5

初めて柿を植える農民グループを対象とした説明会での様子。

柿とはどのような果物かということから始めた。


これも中々簡単には進まないもので、もともとある他の作物の生産者グループに対しては簡単であったが、柿を植えるために新しく作ったグループなどは、グループのリーダーの選出(グループ内の連絡や報告など、グループの強力なリーダー存在も栽培の成功のための大きな要因となる)や揉(も)め事の調整など、慣れない仕事にも取り組まねばならず、中々前進しなかった。ミーティングや講習会など、人が集まらず、事実上崩壊してしまったようなグループもいくつかあった。

 まず植え付ける時の指導として、適切な間隔を設けて(最低4メートル)樹を植えること、植え付けた後は、同じ畑にトウモロコシを植えないことなどを共通のルールとして作った。予定地を全て見て回り、4メートル間隔で印をつけ、そこに植え穴を掘ってもらって再びチェックを行い、必要本数を決定して農家に苗を販売するという手順で行なった。

 この方法で私の2年目の植え付けシーズンとなった2003年2月は「園芸普及計画」全体で、私の担当地域2.7ヘクタールを含め、3つの地域で約7ヘクタール、苗にして2798本の苗木の植付けを行った。この中には、次の夏に来る雨季で枯れてしまう物もあるであろうが、大きな一歩であったと思う。

活動を終えて

 結局私の仕事は上に挙げたような物で、新たに植えた苗が実をつけるのを見ることなく任期終了となった。もともとこの青年海外協力隊のグループ派遣は5年間の計画であり、私の仕事は後任の隊員達に引き継がれることとなった。植えた苗のことは帰国後も気に掛かかってはいたが、今年3月に、協力隊のバックアップとしてJICAの整枝、剪定のための短期派遣により再びネパールに行くことができた。短い期間ではあったが、かつて働いた現場で順調に生育している苗を見、懐かしい農家とまた会うことができた。

現在活動中のグループ隊員の努力により、その後柿の栽培面積は順調に増え続け、大きな収益を得ている農家も出始めているとのことであった。栽培がそれほど難しいものではないため、この先生産量が上がれば、価格も落ち着き、今は高価な柿も多くのネパール人の口に入るようになるであろう。農家の収入は少し下がるであろうが、もっと多くの人に日本の甘柿品種の味を知ってもらいたいと思う。

100年前に我々の国から持ち込まれた種は、品質は違えど柿という果物をカトマンズ周辺に根付かせてくれた。それから100年ほど経った今、日本の青年海外協力隊のグループが日本の甘柿の普及を行なう。日本人として、日本で果樹栽培を勉強した者として大変光栄な2年間であったと思う。

 2年間のネパール生活は決して楽しいだけのことではなく、辛い思いもしたし、政情不安や発展途上国ゆえの援助慣れした側面など、ネパールという国に失望することも多かった。しかし大学を卒業してすぐの青二才であった私を受け入れ、多くの出合いを与えてくれたこの国に対しての感謝の気持ちは変わらない。好きとか嫌いとかいう単純な言葉で語ることができない国である。これから先、協力隊の活動は終わっても、また現在の協力隊のグループ派遣が終わった後も形を変えて私はネパールの農業に関わりつづけたいと思っている。

最後に

 私がネパールで過ごした2年間は、現地の農家など出会いに恵まれ、多くの人に助けられながら活動を終えることができた。JICAのプロジェクト式技術協力でネパールの果樹栽培技術の向上に大きく貢献した諸先輩方にまず感謝したい。彼らが導入した柿の樹から苗を作り、それを農家の畑に広めることができた。さらに当時のプロジェクトでJICAの専門家から研修を受けたネパールの農業省の職員達に助けられることも大きかった。

見知らぬ国から来た若造を受け入れてくれ、柿の栽培を共に勉強した農家の人達のことも忘れることはできない。何かを教えるというよりも教えられることの方が大きく、技術者として、人間として大きく成長させてくれた。さらに原稿中に登場したが青年海外協力隊のグループ派遣を構想から立ち上げまで行い、活動中の私の上司であった兀下シニア隊員を始め、協力隊グループ派遣の隊員達、そしてネパールで出会ったJICA関係者にも感謝したい。

最後になったが、活動中、懐かしい香川の写真や正月の祝箸など、心温まる救援物資を送って頂くなど、故郷から私を応援してくれた香川県青年海外協力隊を育てる会の方々にお礼申し上げてこの原稿を締めくくりたいと思う。