帰国隊員体験報告       「りる」第20号より

     ネパール         F.Y.

                     平成7年2次隊

                     家畜飼育

 

 私は平成7年12月から10年1月まで、家畜飼育隊員としてネパールに派遣され活動して参りました。

 ネパールという国は、インドと中国に挟まれた内陸の小国で世界最高峰のエベレストがある国ということで有名かと思います。私が赴任する前には、もとの職場の仲間たちに「随分と寒いところに行くんだな」などといわれましたが、実は緯度は日本の沖縄くらいにあるため、インド国境沿いの平地では寒いどころか、夏場の気温は40度を超えてしまいます。北はヒマラヤ山脈で万年雪ですので、小国ながら、その地域差はまことに激しいものがあります。

この地理的な特徴は、ネパールを観光立国として成り立たせているともいえますが、逆にいうと、開発には厳しい地理ともいえ、この国の発展を遅らせている原因とも言えます。さらには、ここに住む人々も単一民族ではなく、北の山岳文化をもつ人々や南のインド文化をもつ人々等が混じり合い、一説では30以上の人種があるとも言われています。

国土面積は日本の約4割ですのでその複雑さが伺(うかが)えるかと思います。このように複雑な国ではありますが、宗教に関しては、9割以上の人々がヒンズー教を信仰しており、宗教に関する紛争等はおきていません。ネパール周辺の国々では、ヒンズー教とイスラム教がいざこざを起こす場合がありますけれども、ネパールに関しては、この心配はないようです。

 なかなか難しい背景をもったこの国の首都、カトマンズで私は、活動して参りました。この都市は、標高が約1300mと適度な高度にある盆地ということで、気候は非常に穏やかでした。日本の気候と比較しますと、四国よりも冬は暖かく夏も暑くなく湿気も少ないので、非常にしのぎやすく、カトマンズが首都として発展したのも解る気がしました。

 しかしカトマンズは、ネパールと聞いて大抵の皆さんが想像されるのとは、かなり違った印象の街です。ヒマラヤなどから想像される澄んだ空気、きれいな水といったものとは縁遠く、空気は主に自動車の排気ガスによりひどく汚染されており、中心を流れるバグマティ川は過剰に増え過ぎた人口にもよるのか水量が減る時期になると異臭を放ちます。

また、人々はゴミを平気でそのあたりに捨てるので、道端にはかなりのゴミが見られます。野菜屑や果物の皮などは、そこらへんに沢山いる野良犬や牛が食べて処理してくれるのですが、その糞が道のあちこちにあるので、ペットの糞の処理が当たり前になった日本人にとっては、かなり汚く感じられます。また、最近はネパールでも日本と同様、買い物をするとビニールの袋にものを入れてくれます。このビニールのような再生が出来ない種類のゴミは、街をよごす大きな原因ともなっています。

 

  ヒマラヤ風景


 カトマンズに着いた初日、まず驚かされたのがこの空気の悪さと、交通マナーの悪さです。一緒に派遣となった仲間ととりあえず街を歩いてみようということで、外に出かけたのですが、予想以上に車が多くて、日本の常識的な感覚で道を渡ろうとするといつまでたっても道の向こう側に渡れそうにありませんでした。横断歩道は書いてあっても、そんなものは無きに等しく車には歩行者を保護しようという考えなどほとんどありません。

とりあえず道を半分だけ渡ってセンターラインの上でもう一方側の車の列がとぎれるのを待って渡らなければなりませんでした。前後を車が通り過ぎる中、センターライン上に立っているというのは、日本ではあまり起こり得ない状況なだけに、ひとつまちがえば轢かれるのではないかと、大変恐い思いをしたことを今でも覚えています。ネパールに来て最初に受けたカルチャーショックでした。また、交通に関してもう一つ驚いたことは、牛が車道を堂々と歩いていることです。

ヒンズー教で神の乗り物とされる牛は、この国では人の手であやめられると言うことがありません。日本では、雄牛は肉に、また雌も乳を出さなくなれば肉になるというのが牛の当然の運命なのですが、この国では雄牛であったり、乳を出さなくなった雌牛でもちゃんと飼育されるか、もしくは野に放たれるのです。大都市カトマンズでこのような運命になった牛は、野原ではなく車道に放たれ、行き交う車の中をさまようわけです。

家畜を専門とする私は、大学を出て初めて就職するときの面接試験で「牛は大体何歳くらいまでいきるものですかね?」と聞かれ、「本来家畜は殺すことを前提にしているので考えたことがありません」と答えたことを思い出しました。事実、世界でもあまりそのような研究をした人は少ないのではないかと思いますが、この国ならそんなデータを出すことも可能かもしれないななどと思いながらも、畜産関係者としては大変な国に来てしまったという思いもありました。

 また、ネパールに到着後最初の1ヵ月程度は一般のネパール人の家から、語学学校に通う日々でしたが、この間に一度ひどい下痢におそわれました。一日に20回程もトイレに行かなくてはならない状況で、こんなすごい下痢は生まれて初めての経験でした。ホームステイ先での食事は毎食ネパール料理でしたが、弱った胃腸にスパイスのきいたネパール食はなかなかうけつけません。

ホームステイ先の家族は心配してくれ、無理に食べなくてもいいといってくれたのですが、典型的な日本人である義理堅い私は、妙に遠慮してしまい、”日本にはご飯を残すと目がつぶれるという諺がありますから”と子供のようなことをいって家族を笑わせ全部食べた後、数分後にはトイレで吐いてしまうという、今思えば笑ってしまうような事もしていました。この下痢には原因があったわけではなく、単にネパールの水に体が順応してなかっただけと言うことで、3〜4日で良くなりましたが、ここはやはり外国なのだなと思い知りました。

 このように、ネパール着き職場に赴任するまでの最初の一月半程度は良くも悪しくもすべてが新鮮でした。その後いよいよ職場に赴任となったわけですが、私の職場は国の中心となる農業関係の試験場であるネパール農業研究評議会の家畜栄養部で、私が初代の隊員でした。

家畜飼料の化学的分析の指導を主とした要請で赴任したのですが、いざ赴任してみると、分析に必要な機械、機器類はかなり老朽化していて、まともに機能しているものはあまりありません。その上、大事な機械類がおいてあるにも関わらず、分析室は雨漏りしており、雨期には分析室の4分の1くらいは水浸しになってしまうと言う有様でした。いくらネパールとはいえ、国家最大の研究機関と聞いていたので、もう少し整備されているものを想像していたのですが、その状態は予想以上にひどいものでした。

とりあえず、職場の職員のことを良く知り、また職場の状況を把握することが必要と考えましたが、現場の職員にとっても私は初めての外人であり、私をどういうふうに取り扱っていいのかよくわからない様子です。まずは、現場に入って彼らと一緒に分析を行い、職場の問題点を理解することに努めました。仕事をしてみてまず感じたことは、ネパール人はみんなのんびりしていて仕事に対する責任感とか、努力して自分の能力を高めようとかいう、いわゆる”やる気”が全く見られないという事です。

それと、個人個人の能力が低いという問題とともに、職場を能率的に動かすシステムが確立されていないと言う点が重要な問題のようです。例として挙げると、分析を実施しても、そのデータの記録用紙をきちんとファイルしないため、そのうち無くしてしまったり、また分析室の掃除が十分でないため、いつも汚く機器の故障の原因となってしまっているといった本当に基本的な部分ができていないためにうまく機能しないのです。

 最初のころは、職場の機器類のひどさと職員のやる気の無さにいったい自分は何をすればよいのか途方にくれましたが、”日本人の仕事に対する取組方だけでもネパール人に見せて帰ろう”と思い、とにかく何でもいいから出来る事をしようということで、例えばデータ記録用紙の紛失を防ぐため、用紙を管理するためのファイルを段ボール紙を切って作ったりしました。

段ボールをはさみで切っているときには、自分は日本で大学も出て実務を5年も積んでわざわざここまで来たのにどうして段ボールを切っているのだろうと思ったりもしましたが、今思えば、こうした地道な作業がその後の自分の活動を支える結果となったようです。それを見た職場の上司が、ファイルを入れるためのボックスを作ったらどうかと提案してくれ、その後は分析結果を記人した用紙が紛失することもなくなったのです。

そのような地道な仕事を続けているうち、上司や同僚とのコミュニケーションの量も多くなり、自分の知識や技術的な能力なども認めてもらえ、仕事がスムーズに進められるようになってきます。これと同時に、分析機器を更新したり新しい種類の機器を導入し、それらを利用しての分析方法を指導すると共に、データをコンピュータ管理するためにコンピュータを導入しました。

コンピュータについては、同僚たちの興味が特に強く、かなり熱心に勉強してくれ、私も非常に教えがいがありました。いままで、なかなかいろいろなことを指導してくれる人がいなかった彼らにとって私の存在は大きかったようで、2年の間にかなりな知識、技術を吸収してくれた同僚も居ました。ある同僚が、「いままで、ここで10年以上仕事をしてきたけど自分は何一つ出来なかった。100点満点でいうと0だった。でもあなたが来てくれて70か80点くらいまでにはなったよ。」と言ってくれた時は、協力隊に参加して本当によかったなと思いました。

 また、試験場という機関の中で活動していた私は、農業関係の隊員でありながら実際の農民とふれあう機会が無いことをやや残念に思っていました。そこで任期の終わり頃に、ネパールで活動していた家畜飼育と獣医の隊員6名で、ネパール東部の村の農家の婦人グループに畜産に関する講習会を5日間の予定で実施しました。家畜の飼養管理の基本について、講議と実習を通じて学んでもらうためです。

私たちの発音の悪いネパール語で、農家の女性がどこまで理解してくれたか解りませんが、家庭の農作業もある最中にも関わらず、大変熱心に講議を聞き、実習にも積極的に参加してくれました。小さな活動ではありますが、少しは役にたてたのではないかと思われ、これも非常に有意義な体験となりました。

 

  農家の婦人を対象に畜産講習会



 このように言うと、私の活動は全般に順調であったように聞こえますが、実はそういうわけでもありません。先にのべた、ネパール人ののんびりさ加減や、機器類の不備の他にも、いろいろな事が思うようにいかずいらいらさせられることも度々でした。例えば、これは私の職場に限ったことではないのですが、水や電気の供給が不安定なため仕事がうまく進まないと言う非常に基本的な問題です。

飼料の化学分析には水と電気は不可欠で、これがなくなってしまっては、はっきり言ってお手上げです。電気は停電が頻繁(ひんぱん)におこり、せっかく分析を開始したのに電気が止まって又最初からやり直し、となり、やる気をそがれることが度々です。水については、試験場のある場所には水の供給施設が整っていなかったため、定期的に水を買ってタンクにためておいて使うと言う方法でした。

水が切れると業者に頼んで水を持ってきてもらうのですが、これがなかなか頼んでも来てくれなかったりで、ひどい時は4日程かかった事もありました。これら、日本ではまず起こり得ないことが、赴任当初は大変なストレスとなっていました。自分は何かをするために協力隊に参加したんだという気負いがあり、気持ちが焦っていたためだと思います。

このような焦りがあるうちは、どうもあらゆる物事を否定的に考えてしまいがちで、毎日の仕事も充実感が無く、同僚には私は「不機嫌な日本人」と写っていたかもしれません。しかし、これらのこともそのうち、”この国ではこうなのだ。”と割り切れるようになってきます。つまり、この国に順応してきたと言う事なのでしょう。順応するとはどういう感じなのか具体的な例を挙げてみたいと思います。

 私の住まいの近くには海外からの援助で作られた立派な信号付きの交差点がありました。信号は時差式信号まで着いたものでネパールではまともな信号機らしい信号機はここのみという信号機です。しかし、この信号付交差点には常時5,6人の警察官が着いて交通整理をしていました。これは、ネパールに停電が多いということもあるのですが、信号機ができて間もない頃は、信号になじみの薄い人が多い上、矢印の信号などは生まれて初めてみる人が殆どなので、信号機のみに交通整理を任すわけには行かないためです。

特に歩行者は青で渡るという観念が無いのか、信号はあっても守る必要などまるで感じていないようで、信号は赤でも相変わらず、道のセンターライン上で一度立ち止まる渡り方でわたってしまいます。日本人の歩行者である自分は最初のうち、この信号をかたくなに守っていたのですが、赤信号で待っていると、近くにいる立派な服装の警官に、”何でわたらないのか”と言われたことが3度ほどありました。

まさか赤信号を待っていて警官に怒られると思っていなかった私は、腹が立って、はじめのうちは、”赤では渡っちゃいかんのだ。何のために信号があると思ってるのか。”と警官に説教をしていましたが、そのうち、歩行者保護の観念がないこの国では、青で渡っていると、左折、右折車に轢かれる可能性が高く、赤で渡る方がかえって安全なのだ。変にルールにこだわっていると自分の身が危ないと気付いた私は、考えを変えてネパール人と一緒に赤で渡る事にし、そのうち赤で渡ることにほとんど抵抗が無くなってしまいました。

 また、これはこの場で話すにはやや失礼な話題かもしれませんが、トイレで用を足した後、紙が無くても、水と左手があれば大丈夫になったことも順応の具体的な一例として挙げられると思います。なぜ左手がというと、ネパールでは食べ物を手で食べるのが通常ですが、この時は必ず右手を使います。左手不浄という考えがあり、例えば買い物などをしてお金を渡すとき左手で差し出したりすることは失礼にあたります。

日本人である私は当然、ネパールに行くまで、紙以外を使った事は無く、ネパール赴任当初もちゃんと紙を使っていたのですが、最初にひどい下痢に襲われたとき、どうしてもネパール式に水と左手を使わなくてはならない状況に陥りました。最初はずいぶんと思い切りがいりましたが、慣れてみるとなんと言う事もありません。日本にウォシュレットがあるように、水を使うというのは意外に衛生的でかえって紙よりも良いかも知れないと思うようになりました。

ただ、ネパール人のように、食べ物は左手では極力触らないという癖もつき、日本に帰ってからもしばらくは何となく食べ物を左手でさわらないという感覚は抜けませんでしたが。

 このように、自分がネパール化した後は、ネパールでの生活はとても快適なものになりました。ネパールの公務員の平均的な月収は、日本円にしてわずか6千円程度ですが、物質的には恵まれなくても生活はそれほど貧しくなるものでは無いことを知りました。

 ネパールの主食は米で、これに豆のスープと野菜や肉をカレー味に妙めたものが付くのが定番ですが、野菜や鶏等は日本の物に比べてたいてい小振でありながら味が濃厚ではるかに美味しく感じました。またネパール料理は、殆(ほとん)どの物がカレー風味なので一見単調なように見えるのですが、それぞれの料理でスパイスの使い方が違っているため、あまりあきるようなこともありません。

食べると言うことは、人間のすべての基本であり、食文化というものはどんな国に行っても深いものなのだと改めて認識させられた次第です。また果物も豊富で、日本ではなかなか食べられないおいしいマンゴーやライチ等が安価で買えるので、自分もこれらの果物の季節になると毎日のように買い込んでは食べていました。さらに、酒に関しては、米やヒエから作った焼酎が最もポピュラーであり、よく飲まれています。

基本的には、酒は程度の低い人間が飲むものという考えもまだ残っているようですが、実際には酒を飲む人は多く、私も時々仕事帰りに同僚と近くの居酒屋のような場所に酒を飲みに行っていました。ここで出される、お酒やつまみは大変美味しく、今度ネパールに行く機会があったら、ぜひもう一度訪ねてみたいと思っています。

 このように、総じて見ると私の2年間のネパールでの活動、生活はとても充実したものだったと振り返ることができます。ゆったりとした流れの中で、仕事はあまり技術的レベルの高いものとは成り得ませんでしたが、一緒に仕事をする同僚の存在が自分の仕事に意義をあたえてくれていましたし、活動の成果もそれなりには上がったのではないかと思っています。

日本に帰国し、日本の環境に再び慣れて行くに従い、隊員の経験を日本の社会で直接活かすと言うことは、なかなか難しいことなのかもしれないとも思う今日この頃ですが、異文化の中で自分の力をもって活動し、その結果現地に受け入れられると言う体験を、今後ますます国際化していくであろう世の中でなんとか活かしていきたいと考えています。