ニジェールでの活動を終えて      「りる」第26号より 

                                                    ニジェール  Y.T.
                                                             平成10年度2次隊
                                         家政
    

 こんにちは。私は昨年の12月まで2年間、西アフリカのニジェールで、家政隊員として、活動していました。ニジェールといっても、あまりなじみがないと思いますが、なぜかこの国には、香川県出身の隊員が多く、私がいた時にも、1番多い時には、4人おりましたし、また、この春にも香川県からお1人行かれると聞いています。

 まず、このニジェールという国についてお話したいと思います。ニジェールは、アフリカの西に位置する内陸国で、その国土の大部分をサハラ砂漠が占め、一年で最も暑い時期には、気温が50℃を超える程の暑い国です。面積は日本の3倍以上ですが、人口は、日本の10分の1にもなりません。1年は乾期と雨期にわかれ、乾期には雨は一滴も降りません。

6月から9月は雨期になり、2〜3日に1度くらいの割で短時問で激しい雨が降ります。そして、この時期だけその雨を利用して、ヒエや豆、ピーナツ、それからトウモロコシ等を作ることができます。その自然環境の厳しさ、そして国自体に特に資源や産業もないことから、世界でも1、2位を争う貧しい国の一つとなっています。


 私が生活していたのは、そのニジェールで、2番目に大きな町、ザンデールというところでした。首都のニアメからは、900Km離れています。そして、この距離を移動する手段は、乗り合いタクシーと呼ばれるものです。車は、車なのですが、たいてい窓は割れているし、ミラーはとれているし、ドアもちゃんと閉まらなかったりもします。メーター類が正しく動いているのなんて、見たこともありません。

そこに、ギューギユーにつめこまれていくのです。時刻表等もなく車一台分の人数が集まって、始めて出発するので、1日中待って、それでも出発できずに結局次の日、ということもあります。でも、出発してもすぐ故障してしまうので、安心はできません。おかげで私は、普通にいくと、13から15時間のニアメ、ザンデール間を24時間、ひどい時には30時間かけて移動したこともありました。

 さて、ニジェールには、何種類かの民族が住んでいますが、私のいた町、ザンデールに住むほとんどの人達は、ハウサ族と呼ばれる人々でした。温厚で人なつっこく、働き者というのが特徴で、言葉はハウサ語というのをしゃべります。

おもしろいことに、ハウサ語と日本語には、似た感覚の言葉があって、「かゆい」というのを、ハウサ語では「カイカイ」といいますし、「腹黒い」というのはハウサ語で「バッキンチキ」といい、これは、「黒い」を意味する「バキ」と、「お腹」を意味する「チギ」が組み合わさってできたものです。

ちなみに、私の名前は「高橋」といいますが、これはハウサ語にも全く同じ「タカハシ」という言葉があって、これは何と「おしり」という意味なのです。ですから、行った当初は私が自己紹介をする度に、くすくすと笑われるので、どうしてだろう …と不思議に思ったものでした。

 さて、そのザンデールで、私は、家政隊員として、活動していたわけですが、具体的な仕事としては、町の婦人教室で、15から20才くらいの女性達を対象に、洋裁や編みもの、料理等を教えることでした。初めの頃は、言葉も全く理解できませんし、技術的な面での違いもあって、いろいろと苦労することもありました。特に生活習慣の違いからくる問題は難しいものでした。

 例えば、授業中に生徒達がおやつを食べながら仕事をして布を油やソースで汚すのを見て、「汚れるからやめなさい。」と注意したところ、「汚れたら洗えばいいじゃない。」と、当然のように言われて驚いたこともありました。

結局、授業のあいだに休み時間をもうけ、その間だけは、おやつを食べてもいいことで、徹底することになりましたが、こういう感覚の違いというものはお互いを理解した上で、歩みよらなくてはいけないので、時間がかかることも多いものでした。

それでも、慣れていくに従って、徐々に自分のペースで、仕事を進めていくことができ、生徒達が自分で作った作品を売って、現金収入を手にしているのや、私が教えた料理を作って、家族に喜んでもらえたという話を聞くのは、嬉しいものでした。また、最後に行った展示販売会で、それまでで最高の売り上げをあげることができたのも、いい思い出になりました。

 このように、普段は比較的大きなザンデールという町で暮らしていたわけですが、時には、村に入ることもありました。ニジェールの村の生活は大変厳しく、もちろん、電気や水道はありません。水は歩いて20分も30分もかかる井戸まで、女性達が頭にカメをのせて汲みに行ったり、子供達がロバに乗って運んだりします。

食事は毎食、ヒエの粉に水を加え、火にかけながら練ったものに木の葉っぱのソースや乾燥したトマトのソースなどをかけて食べます。眠るのは、家の外や土間にゴザをしいて、その上で。トイレだって、どっかその辺で適当に済ませてしまいます。そして、そういう村には、たいていたくさんの子供達がいて、8人兄弟10人兄弟というのはザラです。そして、その子達のほとんどは学校には行っていません。

理由はいろいろあって、学校の数があまりないので、通うのに時間がかかること、学校を卒業しても働く所がないこと、そして、村には子供達がやらなくてはいけない仕事がたくさんあるからです。井戸への水汲みから、小さな弟や妹の世話、家畜の世話等、彼らは本当によく働きます。また遊ぶのも、おもちゃ等はありませんが、歌ったり踊ったり、その辺の木ぎれや石ころを上手に工夫して楽しんでいます。


 このように、何も物のない不便な村での生活なのに、そこに暮らす大人も子供も本当に満足して穏やかな表情で明るく幸せそうに暮らしています。そして誰かが困った時には、村中みんなで助け合うのです。

 そういうところで、しばらく一緒に生活してみて、考えることがありました。それはちょうど世界中で2000年問題が持ち上がっている時期でした。もし、今2000年問題で世界中がパニックになったとしても、この村の人達の生活は、何も変わらず、ここだけはいつもと同じように、時間が流れていくのではないか・・・ ということです。

 私達は、日本の豊かさという幸せのなかで、常に、生活を便利にするもの、楽しくするものに囲まれて暮らしていますが、いざ、それがなくなるとたちまち困ってしまいます。でも、初めから、そういうものの、何も無いところで暮らす彼らは、逆に何もなくてもやっていける強さ、何でも工夫して、自分で楽しむことのできる強さ、それから家族や村の人達同士のきずなの強さ・・・という幸せを持っているのです。この経験は、私に世の中にはいろいろな価値観の中で、いろいろな生活を送る人達がいて、そして、それぞれの幸せがあるということを教えてくれました。

 そして、もう一つ、私がこの2年間で得たものは、人との出会いでした。お互いの文化の違いを少しづつ理解し合いながら深めた、ニジェールの人達との友情や、また、日本とは全く違う環境の中で出会い、お互いに励まし合った隊員の仲間達とのつながりは協力隊でなくては得られなかったと思いますし、これからも大切にしていきたいと思っています。

 このように、私にとってこの2年間は時にはしんどいこともありましたが、本当に楽しく、充実した時間でした。今でもたまに向こうでのことをなつかしく思い出すこともありますが、この経験をただ、いい思い出にするのではなく、これからの自分自身の生き方に、前向きにつなげていけたら・・・と考えています。