帰国隊員報告          「りる」第32号より

                                                  パキスタン  M.T.
                                                             平成12年度3次隊
                                     保健婦
  (師)                                                              

   平成13年4月から平成15年4月まで保健師としてパキスタンで活動していましたTです。

 私は、派遣前は香川県の保健所で働いていました。保健所には少子化対策、つまりもっと子どもを産んでいただきましょう、という仕事もありました。派遣先のパキスタンでは、出生率の低下をめざして、避妊をして子どもの数を減らしましょうという、どちらも言葉ではファミリープランニングですが、まったく逆の活動をしていました。

 具体的には、人口省という人口問題を専門に担当する国の省庁の一番の下の組織である家族計画福祉センターに所属していました。センターの役割は、村の家庭をまわって、避妊の必要性を指導したり、センターに来た女性に薬や注射や器具による避妊を行ったり、避妊の手術を受けてもらうために町の病院に連れて行き、手術前後のケアを行ったり、避妊活動の最前線、という位置づけでした。

 協力隊への要請は、「センター活動の改善」でした。

 とはいえ、実際の活動はというと、多分活動時間の一割くらいは、村人に怒られ謝っていたと思います。といいますのも、さっき言いました活動のうち中心となる「センターでの避妊」、薬を渡したり注射をしたりというのは、センター長であるファミリーウェルフェアワーカーのみができる仕事だったのですが、とにかく、朝、時間通りに出勤してこない。その間、1時間も2時間も待たされている女性の苦情を聞き、ひたすら謝る・・・。

 また、避妊は国の政策ですので、避妊にかかる料金は日本円にして6円、避妊以外の薬は無料なはずなんですが、それ以上の料金を請求するんですよね。で、住民が私を影に呼び、「無料じゃないのか!?」と詰め寄るんですよね。おかげで、謝る、言い訳する、ということについては、どの隊員よりも言葉は上達したと思います。

 おもしろいのは、「じゃあ、自分でセンター長にいいなよ」とか、「お金を請求されたときに断りなよ」というと、「そんなことはできない」というんですよ。で、センター長の前では、非常にいい子ぶりっ子なんですよね。それで、だんだん「ずるいやん!」と村人にも腹が立ってくるんですが、考えてみれば、「面と向かっては言わず、陰で文句を言う」というのは、日本人も同じじゃん、と思う。

もちろん理由は、パキスタンでは、カースト、身分制度が生きていて上の人に文句はいえない、とか、公務員が絶対的な権限を持っていて、不満を表したら、「じゃあ、帰れ」といわれ、サービスが受けれなくなる、とか、日本とは違った理由があるのですが、パキスタン人が身近に思えたり、「もしかして、こういう保身的な行動は、全ての国に共通なのかしら、と考えたりしました。

 このカースト、身分制度は最後まで、私にとっても難問で、私は、一応、外国人で身分制度の外なんですが、協力隊という制度自体が理解されていないのとが相まって、私の立場は「勉強に来た実習生」で、赴任当初は、40度をこす炎天下にセンターの庭の草むしり、とか、センター長の個人的な買い物とか、子守、なんかをさせられてまして、それを断ると、「じゃあ、もう来なくてよい」といわれる。

 また、「周囲が理解してくれなくても、隊員が一人で汗水たらして働いていると、いつの間にか周囲の人も協力してくれる」というドラマのような感動的な展開にならない。「ああ、あの人はそういう仕事をする身分の人なのね」と思われるだけで、だれも自分の仕事と思わない。

 公私混同や、先ほどのお金のことや、患者を待たすことなどで、最初のうちはよくセンター長と喧嘩をしました。そういう部分を改善することが必要なんだ!と正義に燃えたり。なお、活動先のセンターの名誉のために付け加えますが、私の活動先はまだ、ましなセンターだったようです。多くのセンターでは、職員は給料だけもらって出勤せず、センターは閉鎖していたりするそうですから。

 また、知識の面や技術面、間違ったことや直さなきゃいけないことがどんどん目に付く。特に医療的な処置は、命にかかわる、と思うので、焦る。

 そこで、いろいろな改善策を考えて、やっぱり隊員なので、村人を集めて、はなばなしく健康教育とか、スタッフヘの学習会を計画したり、ですね。とにかく、私の力を認めてもらわなければ!と頭に血が上っていたと思います。

 そんなときに、日本へ3ヶ月ほど退避する機会がありまして、活動と任地をはなれることで、逆によく考える時間がとれました。さらに、3ヶ月ぶりに任地に戻ったときに、私がいなくなった後にも、残ることは何、残らないことは何、ということが見えてきました。

 そういうわけで、その後の私の活動は非常に地味です。

 センター長に対しては、彼女が出勤しているその短時間のあいだに、効率よく安全に仕事ができるように周囲を整える。例えば、「不足しそうな物品は、なくなる前に補充する」、「朝来てすぐに煮沸消毒のスイッチを入れて、煮沸している間に掃除をする」、「待っている患者さんのカルテを先に出しておく」「先に問診しておいて、血圧、体重等の必要なチェックを済ませてメモにして渡し、診察時にセンター長に見せてもらう」、等々、細かなことです。

改めて説明すると、何だそんなこと、と自分でも思いますが。それでも毎日続けていると、それが便利なので、自然にセンター長もそれを当然と思い、私がいないときは自分で雑用係に指示して、実施するようになる。診療がスムーズになるので、待たされている患者に対しても、少なくともセンター長が来たあとの待ち時間は減る。

 患者への指導も、例えば、センター長は薬を処方すると、しっぱなしだったので、一人一人に「これは何の薬」などの説明を付け足すようにしていると、いつの間にかセンター長も説明するようになっていました。

 スタッフヘの指導も特に学習会をするとかでなく、例えばスタッフの主な仕事に家庭訪問がありますが、田舎なのでずっと歩いてまわるんですよ。その道中に、さっき家庭訪問したケースのことを話しあう、彼女は彼女なりの考えや配慮があることが私もわかる。私の考えも聞いてもらう。たとえば、スタッフは訪問先に妊婦さんがいても、避妊の話はしない、それで、私が産後の避妊の話をする。スタッフも、必要だとわかってくる。

その一方で、彼女は、「毎月何人の女性に避妊させたか」という厳しいノルマがある。ノルマに直結しない仕事は、評価されないから、という彼女の事情も理解できるようになる。じゃあ、まずはノルマを達成して、それから・・・。とか。そういう毎日の繰り返しで、任期は終わりました。

 だから、目に見える成果とか、現地の新聞社が取材に来るような華々しい活動とか、住民からの涙ながらの感謝とか、全然ありません。それどころか、多分センター長も、私から何かを教えてもらったとか、改善してくれたとは思ってないと思います。むしろ帰国前のパーティーで「十分に指導してあげれなくてごめんね」と言われましたし。

 正直、他の隊員がシステムの構築とか、マニュアルの作成とか、商品開発といった成果を報告しているなかで、自分の活動はこれでいいのか?との悩みは最後の最後までありました。役に立っていないんじゃ・・・。とか。

 でも、2年間で帰っていく私が、私が帰ったあとも残せるものは・・・と考えると、これもひとつの活動のあり方だったかな、と思います。

 なお活動とは離れますが、私は任期中に2回、日本への退避を経験しました。

 退避自体は決して好ましいことではないですが、先ほど述べたように、私は退避をきっかけに、活動は2年間だけど、センターの活動や村の生活は隊員がいようがいまいが続いているのだ、というあたりまえのことを実感しました。

 また、日本からのニュース、つまり西欧の視点からの報道と、イスラム圏のニュース、別の価値観からの視点の報道の両方を比較することができました。さらに、報道と現地のギャップや、報道されなくなってからも現地の問題は続いている等、噂話からマスコミレベルまで、情報と付き合うにあたっての良い勉強になりました。

 また、ステレオタイプな分類は、自体を単純化し理解できたような気になるけど、事実はそう単純ではない、ということも身をもって学びました。これらは貴重な体験だったと思います。

 最後になりましたが、育てる会の皆様はもちろんのこと、厳しい社会情勢の中、現職参加を認めてくださいました真鍋知事以下香川県の皆様、地域で応援してくれました高瀬町長や町民の皆様に心からの感謝の意を表し、活動報告を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。