フィリピンセブ島発        「りる」第5号より

     フィリピン       A.I.

                     平成3年2次隊

                     養殖

 

1.協力隊参加の動機

私はもともと「協力隊事業」に共感を持っていた。また、大学の先生を通じてJICA(国際協力事業団)とかかわりがあったこと、さらに大学の勉強が生かせる(伊藤さんは水産大学校卒)などの理由から卒業と同時に協力隊に参加した。

 日本からマニラまで飛行機で約四時間である。このような近隣の国なのでこれまでに我が国から派遣された協力隊員も昭和四十年以降現在まで約九百名に達している。この国の公用語は英語とタガログ語である。

然し、フィリピンは実に七千以上の島から成っておりこの島々ではそれぞれ独立の言語が使われ、これがこの国の発展を大きく阻害しているといわれている。

 フィリピンといえば爆弾テロ、保険金殺人、誘拐、火山噴火などショッキングな事件や天災が相次いでいる。

2.活動内容

 このような中、私はセブ島のセブ・科学技術大学へ赴任した。この学校には九つの分校がありその中の一つに派遣された。私はこの学校の「先生」に水産養殖関係の技術や仕事を教えてそのレベルアップをはかるのが大きな目的であった。

ところが、教える相手は自分の父親ぐらいの年代の人達ばかりで最初は戸惑い、驚いた。然し、だんだん馴れてきてまた良いスタッフの人達に恵まれ若造の私のいうことをよく聞いてくれたので水産養殖関係業務は順調に進んだ。

 私の仕事場はセブ島の市内から四十キロメートルほど離れていた。毎日、単車で通った。途中にあるダナオという町で密造拳銃を造っているところがありここを通るのが大変だった。

 水産関係では
 エビ・・・(現地では)ブラック・タイガー
 カニ・・・ワタリガニ
 ミルクティッシュ (National Fish)「国魚」

等の養殖を手掛けこれをこの学校の「先生」方(私にとっては生徒)に教えた。

  大学のキャンパスにて 先生と生徒

 然し、この場合の協力隊活動の問題点としては「生きもの相手なので僅か二年間で結果を出すことは難しい。」というのが我々の本音である。ある程度の実績を挙げるためにはもう少し長いサイクルが必要だと思われる。私達はさらに日常活動の結果を踏まえて養殖のマニュアル作りにも取り組んだ。

3.現地の状況

 私の任地はマニラから飛行機で約一時間のところにある。ここには「日本人会」もあった。隊員は六名から時期により八名であった。私はこの仲間達と仕事や遊びで楽しく過ごした。ここには日本食、レストラン、カラオケまである。パブリック・マーケットでいろいろな買物をした。マグロ一キログラムが三百円ぐらいであった。

 協力隊活動は日曜日のほか土曜日も休みであった。この辺りは海が非常に綺麗でダイビングにも再三行った。フィリピン人とのパーティも時々催した。豚の丸焼き−耳・目玉・舌はお客用として珍重がられた。

 青森の出身者に納豆好きがいた。大豆を植えてそれから納豆を作った。また、ニワトリの餌を売っているところへ行って、この飼料から納豆を作って食べた。

小料理屋的なところへ入るとよくアヒルの卵が出てくる。これはアヒルの卵を受精させていて「ヒナ」が孵る直前のもので「手」や「足」が一緒に付いて出てくる。これを食べるのがご馳走とされ「バロット食ったか」というのがこの辺りの挨拶になっていた。

  魚市場でマグロを買う

4.子供達への祈り

 私は休日には子供達を連れてよく海へ行った。近くにこのような美しい海があっても子供達はバス賃がないので海へ行くことが出来ない。この辺りには親のない子供が多く学校へ行けない子供が数多くいた。

 私は自分の仕事が「子供が学校へ行けるようになること」とは直接、繋がらないのは勿論判っていたが子供達を海へ連れて行くことによって何か、廻り廻ってこの子等が学校へ行けるのではないかと思いたかった。あのように海辺で楽しく遊ぶ子供達を見て私は何時も祈るような気持になった。

 「この子達の将来にどうか、どうか、”幸せ”がありますように」と

 フィリピンではアキノ大統領に代りラモス大統領が就任した。これまでの七代の大統領は就任すると必ず第一番にアメリカヘ行った。然し、このラモス大統領は最初の訪問国として日本を選んだ。フィリピンの「日本」に対する期待と信頼が如何に大きいかを表わす出来ごととして、私達はこれを真摯に受け止めたい。

 以上で私の帰国報告を終ります。どうも有難うございました。